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概要

25_1964-1988

管E E  ■9 7 0||| ||■ ■||パルク週賀導入アポロとともに新時代ひらく伊木常昭0国際観光振興会′‐里事1969年に入って間もなく,当時,私が勤務していた日本航空アムステルダム支店に,加藤皓タリフ課長(当時)が訪ねてこられた。日本行きツアーが売れなくて苦労していた私は,「今の運賃の半額になったら日本行きのお客様を何倍かに増やしますよ」とつい強気にいってしまった。加藤課長は「やりましょう」とひと言。心の中にはすでにバルク運賃ができ上がっていたのだ。これがきっかけになったかどうかはわからないが,私は同じ年の4月にタリフ課に異動となり,初仕事が11月に日欧間に導入が予定されていたバルク運賃の日それは忘れもしない昭和44年(1969年)4月17日のこと,パンナムスーパージェット(PAでの呼称)ボーイング747の精巧なモックアップ(といっても機首部分の一等席と二階席だけであったが)が,東京国際見本市晴海会場で多数のマスコミ,旅行代理店関係者および一般に公開された。実際のジャンボ就航(1970年3月11日,羽田空港に初飛来)に1年先がけてのデモンストレーションである。その頃,パンナムの北太平洋地区宣伝部長であった小生は,ジャンボ機就航を目前に控えて毎日,宣伝企画プレゼンテーション等を当時アシスタントの渡辺泰沼本の旅行業界への説明会だった。説明会と併行して詰めていったのが太平洋バルク運賃である。何しろ大事な路線,市場だから慎重にニーズを調べ上げていった。創設間もない旅行開発の当時の利光松男専務,若木孝之常務と幾度打ち合わせたことか。当時の東京支店の安藤光郎,若林ヤタロウ両氏とも繰り返し話し合った。日欧バルク運賃の説明会で接点が増えた旅行業界の実力者の皆さんの意見もうかがった。そして,ハフイ4泊6日,40席,14万円程度のツアープライス等々, これなら行ける条件ができ上がってきた。7月,ロサンゼルスのIATA会議で採択間際までいったのだが,他の運賃について合行氏(現・ユナイテッド航空団体営業部長)と討論していた。そんな或る日,我々の宣伝仲間の森口以佐夫氏(現ブレイン社社長),古賀直人氏(現ビック社社長)と打ち合せ中,ジャンボ就航に話題が集まり, どうしたら一番効果的なプロモーションが展開できるかの話になった。その中で森口氏は,ご兄弟が神戸製鋼の広報に勤務されている関係から,パンナムが何らかのかたちで神鋼に協力出来れば,同社も喜んで協力すると思う, と述べた。小生は「これだ.′ 」とピーンと来た。森口氏に協力を求めると, 2日後に同氏から最高に良い話があった。それは,もしボーイング社が神戸製鋼のアルミニウム(航空機用)を購入すれば,ジャンボの模型をパンナムのためにつくってくれ意できず,秋になって漸くまとまり,いよいよ業界発表,1970年1月1日実施の運びとなった。結果は予想以上の爆発的な売行き/やはり消費者,旅行業界のニーズを徹底的に詰めて商品づくりをしたことにも成功の理由があったのだと思う。7月のIATA会議で忘れられぬことがもうひとつある。ちょうど会議の最中の7月20日米国のアポロ11号による人類史上最初の月着陸が成功し,月面を歩く宇宙飛行士などの実況がTVで放映された。昼食時間を延長して皆,TVに釘づけになったものである。思えば太平洋バルク運賃は日本の旅行史に新時代を開くものだった。その審議が,同じように新時代を開いた月着陸と同時だったのは,偶然とはいえ一生忘れ得ない出来事である。ジャンボ機就航スーパージェット出展に秘話荒チ?羊―●ベネットフレッドサンツアーズジャパン/代表バンナム・スーパージェット只今到るとの話だった。こうして国際見本市におけるスーパージェットのモックアップ出展は実現したのである。出展は決まったものの,そのための準備がまた大変だった。たとえば,見学者を三階席に案内する設備として,羽田空港で使われている作業用の梯子車を,警察から特別運送許可を得て会場に搬入した。また,一等の座席が足りず,ホノルルから急遠取り寄せて, 5台のトラックで会場へ運び込んだ。こうした苦労が実って,会期中の来訪者数はじつに50万人を数え,NHKの「スタジオ101」で放送されるなどマスコミの注目を大いに浴びることにもなったのである。曰ぽ,´ ヽ゛嗜へヽヽ|t■ .ヽ _.'LⅢ■藤ヽ`響「魔島「d「■■コヨビLE轟