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概要

25_1964-1988

1969世界旅行設立和田社長の回マンに魅せられて星 勇夫●ジェットツアー/アメリカ部部長丸善石油創業者の長男に生まれ,ニューオリエントエキスプレス佛を創業し,常にロマンに魅せられ,語り,周囲に夢を与えて下さる人でした。一一寒い,小雨の降るお通夜でした。1978年春の彼岸,忽然と世を去られました。社の冠であり重心であり,存在するだけで心が温まり,社員の挫ける心を支えて下さる人でした。今,弊社には「和田ルーム」と名付けた会議室があります。♂ヽJI憑八7暑い1日でした。1969年7月24日。その2日前に法人登記を完了した弊社は,東京港区の三和銀行虎ノ門支店裏にある東洋リノリウムビル7階フロアに備品を搬入,居を構えました。和田太計司社長以下,総勢で7人の小所帯ながら,それなりに気分の昂揚したホールセール事業開始の日でした。旅行・航空業界は海外旅行需要爆発の前夜にあり,1970年正月のハワイ旅行は1969年12月31日発と比べて一気に半額以下になるという旅行価格の一大変革の時期でした。楽観と緊張を等分に抱きながらの毎日の心の支えは,漸増する需要の実感と,1960年代は「ヒップになるか,スクエアになるか,どちらか一つを若者は選ばなければならない」時代だった。ヒップ,つまり大金持ちや支配的権力者の言説に対して不信感をいだき,堅実な家庭, りっぱな愛情生活などという一枚岩的な社会に疑いの目を向ける反逆者―これは絶対にヒップだと決め込んで私は海外観光渡航が自由化された1964年(昭和39年)7月,羽田を後にアメリカ旅行開発設立人生変えたツアコン募集記事中本寸,こ雄0旅行開発/顧客販売サービスセンター渋谷営業所所長ホールセール理念の確信,そして社長・和田太計司の存在でした。「○○君,どう元気?一杯飲りたいね」が口癖で,顔を合わせる度に言われ,単なる社交辞令かと怪しみながらその瞳を見ると真実味が有り,思わず秘書にその真意を確かめると,本気で仰言っていると分かり,いつも二つ返事でいい加減に答えていた事に冷汗をかいたものでした。或る年の正月にハワイのオペレーションの視察にお越しになられましたが,生憎と搭乗機が雪のため大幅に遅れ,疲れ切った風情でホテルに到着し顔を合わせた途端に開口一番「どう元気?一杯飲りたいね」には居合わせた皆がニヤッと笑ったものです。へ旅立った。当時の世相はというと,アメリカはベトナム戦争に手こずっていて,国内的にも反戦運動,黒人間題や過激派対策などさまざまな問題をかかえ,アゴを出し始めていた。価値観の凄まじい転換期であった。しかし,私自身はこの旅行を通して自分の異文化受容能力の狭さを痛感させられ帰国,しばらくの間,外資系企業に籍を置いたものの,落ちつきなくさまよう日々を過ごしていた。そんな折,毎日新間に掲載されていた次のような求人広告が目をひいた。世界に飛躍するジャルパック・コンダクター募集/旅行開発卸一―‐この一片の募集記事は「何かもの足らず,倦怠からの脱出」を試みようと考えていた若者の最前列左から4人目が和田社長('77年撮影)人生を変えてしまったようだ。応募者数60余名。1969年4月4日に設立された旅行開発は,日航東京支店内に居を構えて11月から発効の欧州線新運賃バルクフェア導入で大幅に料金の下がった「ジャルパックJOYヨーロッパツアー」に力を注いでいた。同ツアーは圧倒的人気を博し,42本2062名の予約をかかえて添乗員をどうするかが問題となっており,その要員の一人として私は採用されたのである。採用後は研修でたっぶり搾られ,同じ年の12月30日に初めて,コンダクターとして5名の同期生とともに巣立った。そして,バルク運賃は70年以降の海外旅行ブームの原動力となったのである。当時の新人コンダクター同期生は(私を除いて)現在では皆,要職に就いて大活躍中である。知に生きて経営に携わる身となるか,情に殉じて専門職(ツアーコンダクター)となるか―天が人に振り分けたもの,これを適性と呼ぶのだろうか。∩10ηいつの時代にも呼び名こそ異なるが,大別して体制に順応するタイプと,それに逆らう派というものがある。ノーマン・メイラーの言葉をかりると,このイヽぬ∩ヽ.観響l ‡