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概要

25_1964-1988

1968L00K登場先発「J」に烈しく対抗心燃やす交通公社のジャルパックです/ジャルパックは,自社でホテルや観光バスの手配はしておりませんが, ルックは交芸亘公社が行先に最適の航空機を選び,ホテル,観光バスなど,すべてに責任を持って手配していますので安心してお出かけになれます―これは1968年,新ブランド「ルック」の発表に際し想定された,販売カウンターでのお客様対応のモデル例です。ジャルパックに対抗して,旅行業者の主体性を貫いてできた「ルック」も,集客に結びつかねば元も子もありません。そこで,日本航空の強大なジャルパック宣伝に対し,ルックに有利に誘導するには大林明彦●JTBワールド/販売部次長三木惣介0東急観光/,炒卜営業部欠長どうすれば良いのかと種々考えられた中の一つが,この想定間答というわけです。ルックのネーミング選定では,当時のJTBとしては異例の事で博報堂に何百万円かの調査費を払って決定しています。社内募集で約800種の候補から4つが最終候補にあげられて,最も有力な候補に「ハミング」がありました(私自身はハミングに一票を入れました)が結局,「ルック」に決定しました。その後は,ロゴタイプや「ルックちゃん人形」,中村八大,永六輔による「シャララ。ルック」のCMソングが作られています。その年の秋,日本通運さんとの主催旅行の提携がなされ,旅程調整,仕立日調整には烈しく火花してやり合いました。特にハネムーン・デスティネーションになりつつあったハワイの仕立日では,神宮皇道館の暦をノートの間にかくして,JTBは集客力にものを言わせ,日通の永野清さん,豊永浩さんは,業務提携の主旨の対等仕立を主張され,調整には何日(時間ではありません)も要した事が想い出されます。そのルックも26年目を迎えて「ルックJTB」と「ルックワールド」となり,新しい「ルック」時代の幕開けです。30周年にはどんな市場になっているのか。ひょっとしたらパッケージ商品だけで1千万人の市場になっているかもしれません。磯,Jレ鶴だフメイト発売当初(.68~'69年)のパンフレットホテルのH.ゲンロ氏)に車を借りて出迎えをやってもらいスタートしました。ショッピング案内といえば市のデパートTown Housuに案内する位しかなく,現在の繁栄がウソのように思えます。ガイドさんは主にサイパンの人,パラオの人で,日本語が大変にうまく旅行者に好評でした。グアム東急ホテルにつづきその後,ヒルトンホテル,第一ホテル,そしてホテル・オークラと大型近代的ホテルが続々とオープンし,週3便のPAにつづき,JLが運航開始,次いで各種パッケージツアーが発表され,それこそ10年に一度出るか出ないかとまでいわれたビッグ・デスティネーション=グアム島が完成したのが昭和46年頃です。今や近代的設備が整いポピュラーになったグアム島ですが,初期のツアー開発に当たった一人として振り返ってみると,素朴な自然探訪型のツアーが少なくなってしまったのは残念な気がしています。ヽLヽぬグアム観光の夜明けジャングル島時代が懐かしい昭和43年(1968年)といえば渡航自由化直後。海外旅行そのものが貴重で,パッケージツアーもキャリア主導型が中心でした。そんな時代のグアム島は,誰の耳にもなじみのうすい島で,当時,ホテルはクリフ・ホテル,エアテルメリゾ地区にサンセット・イン,それと藤田タモン・ビーチ・ホテルしか無く,サイパンにもロイヤル・タガ・ホテルひとつがあっただけです。まさしく素朴なミクロネシアで,ジャングル島というイメージでした。当時は今のようにグアム・サイパン中心でなく, トラック島・ヤップ島・パラオ島などの島へ,DC 6-Bのプロペラ機でのんびり行くのが“ミクロネシアの旅"で,旅の目的も美しいサンゴ礁を見るのがもっぱらでした。東急グループがグアム島にホテルを建設することを機に,「グアム・ツイン」なる商品名で業界他社に先がけパッケージのホールセールを開始したのが,この昭和43年です。キャッチコピーは“3時間で日本脱出"というものでした。JTBさんをはじめ有力代理店さんへ販売を行い,東急ホテルが完成するまでクリフ・ホテル中心に,ピーク時には市内のアパートまで利用して初期の対応が始まりました。当時のグアム・サイパンにはバスが無く,グアム島の魚屋のオジさん(後のHAFA ADAI TRAVELのH.福田氏=故人)にマイクロバスを借り,サイパンの郵便局のオジさん(現在のハフア・ダイ°%t`⌒一´ 一´―」鷲二」「習鋼J′