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概要

25_1964-1988

196/と1967年の春,JATA(日本旅行業協会)からお話を受け,不当景品類及び不当表示防止法に基づく招待旅行の制限に関する公聴会に,旅行業界の声を反映させるための代表選手として出席した。規制の内容は,報奨旅行を1人年1回10万円までとする, というものであった。未熟な身をもかえりみず大役をお引き受けしたのは,ちょうど2年前の1965年に旅行会社を設立して,どうやら会社運営も軌道報奨旅行に規制主婦連と丁丁発止の大論争朝来普男●モルコム。ジャバン/社長「おまえはコンサルタントなどやっているのだから,多分うまく話が出来るだろう,ぜひ公取委(公正取引委員会)の公聴会に出て,業界の意見を述べてこい」に乗り始めた時であり,しかもコンサルタントがつくった旅行会社ということで,その業務がクライアント企業に対し,顧客招待を中心とする各種のインセンティブ旅行をおすすめするのが中心であったため,この件に関して強い関心と,何とかせねばという危機感があったからだ。しかし,いざ公聴会に臨んでみて,あまりにも軽はずみにお引き受けしたのを後悔することしきりであった。というのは,公聴会の席上での相手方は名にしおう「主婦連」がその主要メンバーであり,十分に理論武装している上に,感情露出オーバーの金切り声も冴え渡っているので,自分の発言順番が来る前から既に戦意を喪失してしまったのだ。で,いざとなったら予定していた発言内容とは全く違うことを,それでも汗を流しながら一生懸命しゃべっていたような記憶しか残っておらず,我ながら不覚の一語につきる思いであった。それに引きかえ,当時,JTBの常務をしておられた兼松學現JATA会長が,まことに鮮やかな論陣を張り,堂々と「主婦連」とわたり合って所説を述べておられたのを見て,この方は政治家になったらいいのではないかと,ほとほと感じ入ってしまったことを憶えている。あれから20有余年。この席に出ておられたもう一人の旅行業界人,当時JATA副会長・元藤田トラベル副社長の池上尚久氏は昨年,物故されたとか。今更ながら時の流れの早さをしみじみ感じている。就航式典で。写真左側に・ダルマ"が見える追って超多忙となった。ニューヨーク5番街の“つる丸城",スチュワーデスの制服の一新,大西洋線の乗客全員にハッピを配る“ハッピー・フライト"の語呂合わせなど,ニュースは次々に創られた。外人記者向けも意識したグローバル・キャリヤーのイメージづくりの一環として,伝統的な日本のダルマの世界一周も決まった。私は等身大の大きなダルマと仲良く並んで写真を撮り,「日入れ」の説明など苦心して書いたキャプションをつけて数百枚も広く配ったところ,それからのち,しばらくは「ああ,あなたがミス・グルマか」とからかわれた。つまり,PR作戦は成功したのである。JLが世界1周線ミス・ダルマのP日大作戦,竜田あゆち0日本航空/リサーチセンター役員付部長1967年3月6日,日本航空の世界一周線第1便が東京を飛び立った。難航した日米交渉をはじめ積年の苦労が実を結んだ晴れ姿である。ニューヨーク経由世界一周線の開設は,平和日本の国力を世界に示すものとして,国際線開始(1954年)以来の宿願であった。今では世界の主要都市ヘノンストップとなり,日本から各方向に放射線状に延びる航空路線がグローバルなネットワークを形成している。しかし,この時の世界一周線は,ホノルル,サンフランシスコ,ニューヨーク,ロンドン,パリ,ローマ…… と11カ所も経由し,地上時間を含めた総所要時間はじつに58時間55分であった。前年11月に就航したばかりのニューヨーク線週2便を7便に増強し,うち2便をロンドンに延ばして世界一周線を完成したが,新しく乗り入れた大西洋線は19社の週885往復が飛び交う熾烈な競争市場で,そこへ日航はいわば細腕でなぐり込みをかけたといえる。日航の知名度は米国東部では当時まだ低く,日本の国内線か,せいぜい極東地域の運航会社と思われていたから,“ ワールドワイド・エアライン"のPRや宣伝には全力を挙げた。その頃,私は広報室にいた。1965年末に世界一周線の運航権を獲得した時から1967年3月の開設まで,一連のPR行事やニュース発表の戦略を立て,仕事は日を%s,VlL__藁0ヘ`人` ・い,,ぶ′。 いげ鰺´~直 .一雫― ′¬||II;逃″ヨ:劃h