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概要

25_1964-1988

■■■■■一航空機事故続発悲しみの中に安全第一を誓う和田光秋●イベリア・スペイン航空/東日外地区旅客営業部長少しずつ薄れがちではあります。しかし,年間1000万人になんなんとする海外旅行の現実を注視しながらも,今この業界に働く者として,先ずは航空機運航の安全性の大切さを肝に銘じたいと思うのです。航空・旅行産業に携わる一人ひとりが,それぞれの責務に忠実に対処し,必ずや安全性を第一に業務を遂行することが,何より望まれる永遠のテーマであろうと考えております。終りに,業界の益々の発展と将来への明るい希望を祈念したいと存じます。英国海外航空(BOAC)B-707型機海外観光渡航の自由化が成って2年,昭和41年(1966年)の航空・旅行業界は将来への発展に大いに希望が持たれたことでした。各国のFGTO(外国政府観光機関)も設立され,情報もより身近に入手できるなど,海外旅行への想いが日々高まりつつあったように思われます。が,しかし,この年ほど悲しい航空機事故の続発した年もなかったのではないでしょうか。2月4日,全日空機が羽田沖で墜落。3月4日,カナダ太平洋航空機が羽田で着陸中に事故。翌日,英国海外航空機が富士山麓に墜落。そして11月13日には全日空のYSllが松山空港沖に墜落と,魔がさしたように4件もの航空機事故が発生しました。当時,私は旅行代理店に勤務していましたが,相次ぐ事故に大変なショックを受けたことが今更のように思い出されます。ツアーの添乗などで何かと飛行機に乗る機会が多かったため,家族は随分と私の身を案じたようです。私事にわたりますが,この4件の事故の犠牲者の中にそれぞれ私の知人が含まれていたことも,誠に悲しい事実でありました。いずれにせよ,折角の海外旅行ブームの順調な歩みに水をさしたのは否めないことではありました。時が経ち,海外旅行もいよいよ定着した今日,あれほど悲惨だった事故の事実は歴史には残るものの,犠牲者の方々への思いも,受けたショックの大きさも,麟966FGTO設立旅客誘致へ9カ国が共同戦線蒲生ラ姜子●米国商務省観光局/アジア・太平洋地区副支局長哲也トラベルジャーナル社長だったのです。兼高かおる女史,JATA兼松學会長など,鈴々たる方々に贈られてきたこの賞も,FGTO会員の増加とともに続行が困難となり,10年ほどで打切りとなってしまったのは残念なことです。そんな創成期を経て,USTTAの日本での活動は今年,27年目に入りました。25年でざっと150倍,などという驚異的な訪米旅行者数の伸びはもうこの先望めないにしても,次の25年で世の中がどうなっているか,ぜひ長生きして見てみたいものです。重鎮に囲まれて(後列左端がMプレイ氏)1963年4月,日本における外国政府観光局の第1号として設置された米国商務省観光局=USTS(当時)の職員にとって, 1年後の海外旅行自由化は待ちに待った出来事でした。しかし,自由化になっても初年度の訪米客は2万人たらず。訪れる人もまばらな丸の内。富士ビル1階の事務所で,初代局長のマーチン・プレイ氏や,その後15年間迷(?)コンビを組むことになったオスミこと井上寿美子女史と「なんとかせにゃ」と話し合った結果,私どもの活動内容を映画にすることになりました。出来たフィルムを重い旧式プロジェクターとともにかついで%“行商"に出たのが,若く頑健な新米職員のフリッツM.シュミッツ現局長の初仕事で,大汗かいてやっと代理店にたどりついたら,「忙しいからまたね」と門前払いをくったことも多々ありました。自由化後2年目を迎える頃には英国,ソ連,インド,イタリアなどが続々と観光局業務を開始し,いくつかの問題が日本政府との間に起きてきました。これに対応するには共同体をつくるしかない,と9カ国が集まって出来たのがFGTO(Foreign Governinent Tourism Organizations)で,1966年の春のことでした。その後,業界向けの公式行事も行なおうと「トラベル・マン・オブ・ザ・イヤー」の表彰を始めたのが1968年。前年最も海外旅行の発展に貢献したとして栄えある第1回受賞者となられたのが森谷′膠i当".募ヽヽ(「麗F酔』‐:こ´難‐ヽF▼ ‐ F1 111 参″響ヽ.簿