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概要

25_1964-1988

1965JALPAK誕生創成期の苦労が“仕事の糧"に山И寸専資0日航商事/名古屋営業所長4今, “JAL Agentlnformation"誌の昭和40年度から3年間の合冊本を手にし,ジャルパック誕生時の出来事をつい昨日の事のように懐かしく思い出している。昭和39年の観光渡航自由化に合わせて,日本航空は旅客販売組織の拡充を開始し,その一環として,日本地区国際旅客販売課を誕生させた。翌年の4月から開始するジャルパックの運営のため,同課にジャルパック・センターを開設し,遠藤洋祐(現ユニバーサル・ホリデーズ会長)と私の2名が担当者となった。担当する前年,私は日航東京支店旅客販売課で「日航ジェットプラン」の元祖である「日航旅行クラブ」の企画,販売を手がけていた。これは観光渡航自由化を迎え,国内線にたずさわっていたもの達が“なんとかして,お客様を国内旅行に"という一心から考え出した商品であり,日航が組織的に取扱った最初のパッケージ・ツアーであったと思う。こういった背景でのジャルパックのスタートであったから,当時の日航はパッケージ・ツアーについての業務経験者が非常に少なく,大手代理店さんの援助を受けながら,毎日の業務をこなしていた。海外オペレーターからの旅程表は,当然さまざまな外国語で書かれていたのでこれらをもとにして作るパンフレットや摯r′イハγ諸氏と団長,並びに弊社香港支店のパトリック・ツァイ営業部長(現副社長)らが続々と降り立つ。そして,カーリントン機長以下乗組員とともに機の横に整列して花束の贈呈,歓迎の辞を受けた。こうして無事にセレモニーは終了,機は35分間の給油。整備後,ソウルヘ向けて飛び立った。この日のスケジュールは12時30分福岡着,13時05分ソウルヘ向け出発,その後再びソウルから福岡へ飛来し,16時40分に今度は福岡から台北/香港へ出発して香港着は23時前後。なお同日の福岡からの乗客はソウル行きが25名の日本人の団体,香港行きが2名(ただし通過客を入れればロードファクターは約75%)と記憶している。乗客と売上げはその後,秋・冬の旅行シーズンを迎え日程表の印刷には大変困った。今日のように日本語のガイドブックは販売されておらず,辞書をみても適当な訳がみつからず,まったく自信のない和訳で印刷し,ハラハラしどおしであった。また,40年4月から“JAL Agentlnformation"の編集部が日航本社から移管され,私はその編集担当も兼ねることになった。編集部のあった販売促進課の利光松男(現日航副社長)課長の方針でいわゆる“オックスフォード方式"の引継をした。前任者から写真,レイアウト用紙,原稿用紙を渡され,いきなり第1号の制作に入るというものだった。旅行開発併)の発足まで4年余り続いたこの2つの業務担当は,私にとってひとつの“心の財産"であり,その後の“仕事の糧"でもある。じ1睦げての大歓迎て好調に上昇し,10月には九州・山口合同商談会の東南ア旅行150名,九日電のインセンティブ香港旅行100名などの需要に合わせてコンベア880を臨時便として起用したこともある。以来,今日まで定期便を中止することなく24年間無事故で成長してこれたのは感謝に耐えない。地元の皆さんの支持を得て今年は台北/香港線の毎日便に加え,香港直行便を週2便新設し(L‐ 1011使用),週9便として高まる需要に応えている。この24年間で週間供給座席は,154席から2529席へと実に16.4倍も増えた。時の流れに感慨ひとしおである。そして筆者はいま, この地博多にて再び勤務し最後の仕上げといったところである。CXが福岡へ乗入れ晴れがましき“女王"の初飛来山田1専巳0キャセイ・パシフィック航空/九州支店長待ちに待った我が社の“空の女王"ロッキードエレクトラII機(4発ジェットプロペラ)が筑紫の国(福岡県)博多湾上空にその英姿を現し,板付空港の滑走路ヘ初の国●と進入してくる。地上ではこの同空港史上初の国際定期便就航を祝って,阿部源蔵市長(当時)からの花束と,市の楽隊が満を持して待ち構えていた。タクシーウェイからスポットヘさしかかる乗り入れ一番機には,多くの出迎えの人々の熱い視線が注がれていた。晴れがましき緊張の一瞬であった。タラップが後方ドアにセットされると,まず香港の業界を代表する旅行代理店幹部簿J饉な.感摯・ご攣‐ ・・犠|『コRCh 為