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概要

25_1964-1988

19641人年1回,500ドルの制限付き,しかも平均的サラリーマンの月収が5万円程度の時代で,庶民にとっては高嶺の花。従って,ハワイを訪れる日本人の大半は,米国本土への商用旅行の途中に立寄る人か,あるいはお金持ちの人々で,VIPの多いこと。ホノルル空港には“七人の侍"と称されるJALの接遇職員が配員されていたが,特に「この方のケアを頼む」という依頼が殆ど毎日のように小生に名指し炒| :重|イ言●元日本航空/大阪支店トリスを飲んでハワイヘ行こう一このCMが流行している昭和39年12月,憧れの島ハワイに駐在員として赴任した。当時,海外旅行は自由化されたとはいえ,で送られ,朝な夕なに空港へ出向いた。このようなことから,私にとってハワイでの想い出の大半は,多くの人々との出会い。大阪に淀川善隣館というキリスト教関係の学校があって,ここの生徒達約30人がホノルルを訪れた際には,袋いっぱいのマンゴーを手にホテルまで赴き,生徒達と楽しいひとときを過ごした。そして,先生のリードでワイキキの浜辺の星空の下で大合唱。散策の人々を感激させた光景は今も忘れられない。また,41年に発売された「JALKIT」の関係からホノルル fでの結婚式の手配を依頼され,教会にお願いし快く引受けて頂いたが,殆んどの場合が新婚カップルる。自由化後初の観光団ということで,われわれが到着したニュースは即日,『ハワイ報知』紙などで大々的に報道されたものだ。当時,カラカウア通りのホテルの端はモアナ・ホテルと通りをへだてたプリンセス・カイウラニであり,そこからカピオラニ公園まで現在のようなホテル群はなく,静かでおちついたワイキキでアメリカ人観光客がゆったりとハワイの休日を楽しんでいた。ホノルル滞在後に訪れたハワイ島コナでのホテルは,三階建てでロビーの壁面にブルーマーリンが飾ってあるコナ・イン。このほかコナには, 2, 3のホテルがあるだけだった。われわれ―行が一斉にバス・シャワーを使用したのでお湯がのみの挙式となるため,立合人を私が務めた。これが現地挙式のはしりであり,現在に引継がれている。阪急交通社の友人がスーパーマーケット視察団の添乗員として米本土からの帰りに約80名のお客様と立寄ったときには,アラモアナショッピングセンターの資料を貰ってほしいと依頼され, 7ページからなる資料を80名分も作成して届けたものだ。その友人はもはや故人となってしまっただけに,よけい想い出深い出来事として心に残っている。このように,当時のハフイでの様々な出会いは数えることができず,今でもその頃のきっかけが縁となり,お付き合い頂いている方も多く,ふれあいの大事さが身にしみている今日この頃である。渡航自由化後,初の人ワイ観光団(八ワイ島ヒロ空港で)出なくなったり,細くしか出ないといった苦情になったのを思い出す。また,カウアイ島での宿泊は,カウアイ・サーフのポリネシアンスタイルのコテージで,まさしく南国ハワイの休日といった感じだった。いまから思えば古き良き時代のハワイ諸島であった。一行は3年間にわたり第一銀行において旅行費を積立て,このハワイ旅行参加となった。旅行期間は7泊9日で,ホノルルのほかにカウアイ島,マウイ島,ハフイ島の4島を巡り,全行程食事つきの旅行費用は36万4000円であった。当時の大学卒の初任給がおよそ2万円であったことから比較すると大変に高価な旅行であったといえよう。■海外渡航自由化熱烈歓迎うけたPヽワイ第一陣」伊東― 之●JTB/簿里部長昭和39年,海外渡航自由化(4月1日)後のハワイツアー第一陣,JTB(日本交通公社)主催の「第一銀行ハワイ観光団」は4月8日夜,パン・アメリカン機で羽田を出発し,同日午前9時10分(現地時間)ホノルル国際空港に到着。―行25名(うち添乗員2名)がタラップを降りるとテレビ・ラジオ。新聞社等の報道関係者に囲まれ,熱烈なるインタビューぜめにあい大歓迎を受けた。空港から市内観光をしたのち宿泊先のモアナ・ホテルに到着するも,またまた大勢の報道陣のインタビューとなった。そのときの添乗員が私と丸木正登(現JNTO勤務)であηホノルル駐在の頃心に残る出会い,ふれ合い_L廻暉LⅢ雪翻暉口暉 燿r■|_____=□ 苺a職轟:‐オ:職。‐rchid,E)″κ″′ `′″κοん`々`″″″ ′Dυ`#ノ杉ιο ′,′●. /3,′ a`′ イ ρ″ ´″