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概要

20_1964-1983

しはじめたし,また高度成長期の日本人は多少の余裕をもちはじめていたから, この時期になって海外旅行とりわけ観光旅行に出かける人々の数は飛躍的に増加したのである。大衆化の産物― 「パック旅行」じじつ,1970年というのは日本人の海外旅行の歴史のうえで注目すべき画期的な年であった。というのは, この年になって日本をおとずれる外国人の数と日本から外国へ出てゆく出国者数とがほぼ同数になったからである。それまでは外国から日本への入国者数がおよそ80万人。そして, 日本から外国への出国者数はまえにみたように数万人であったから,旅行者の出入国記録からみれば,あきらかに「入超」であったのである。それが1970年にほぼ同数となり,それ以後はおどろくべきスピードで, 日本から外国への出国者数が外国から日本への入国者数を大きくひきはなすようになったのだ。『運輸白書』のしめすところによると,1975年の日本からの海外旅行者数は250万人,さらに5年を経過した1980年には400万人という,おどろくべき急上昇のカーブをえがいている。そして一方,外国からの入国者数は1975年になってもほぼ横ばいの80万人,1980年になっても120万人, といったありさまであるから,かつての国際旅行の流れが「入超」であったのにたいして,現在では圧倒的に「出超」に逆転し,その倍率はほぼ4倍ということになってしまった。つまり, 日本にくる外国人の4倍の数の日本人が海外旅行にでかけるというおどろくべき時代が出現したのである。こうした海外旅行者数の増加をうながした原因として,「パック旅行」の出現を無視することはできない。元来,飛行機の旅客というのは,たとえば鉄道の旅客とおなじように個人運賃によって輸送されるのがタテマエであり,すくなくともDC8の時代まではあくまでも正規の料金を個人が支払うというのが,当然かつ唯一の方法であった。しかし,座席定員350名といった巨大な飛行機が開発されてしまった以上,それだけの乗客を確保することはかえって困難になる, という逆説が生まれてしまったのである。業界では空席の多い飛行機を飛ばすばあら「空気を運ぶ」ようなものという表現が使われるが,いずれにせよ, これだけの座席数を満席にちかい状態にするためには,名目はともかくとして,旅客運賃の割引によって大量の旅客を獲得する方法が必要になってきたのだ。そこで考案されたのが, この「パノク旅行」なのである。「パック旅行」というのは,いわば臨時に編成された団体客ということであって,団体である以上,そこには一定の割引料金が設定される。航空会社のがわにしてみれば,たとえ割引運賃ではこんでも「空気を運ぶ」よりは収入が増加するわけだし,旅行日程があらかじめスケジュール化されている以上,往復ともにかなりの座席を確保することができる。一方,乗客のがわからいえば,多少,機内サービスが貧弱であっても格安の料金で海外旅行ができるわけだから,「パック旅行」には人気が集中した。さきほどあげた出国者数400万というおどろくべき数字が出現したのも,ひとえに「パック旅行」の大衆化の産物にほかならないとわたしはかんがえている。´●菌口_‐ 口聰大衆レベル電胃いる「開国」4,000万人が海外を直接体験400万人という数字は,かんがえればかんがえるほどきわめて重大な意味をもつ数字である。日本の人口はおよそ1億2,000万。それを分母において,400万という数字を分子にして計算してみると,平均して年間に日本人は30人にひとりの割合で海外に出ているということになるからだ。もとよりこれはあくまで算術平均であって,業務その他の旅行によって年間数回の海外旅行ないし海外出張をする人々もいる。じっさいわたしなどは過去10年ほどのあいだ毎年すくなくとも3回は海外に出かける。だから,算術平均はあまりあてにはならないが, この平均でかんがえてゆくと,30年間で日本人はひとりのこらず海外旅行を経験することになるだろう。そして,すでに200万人台を突破したのが1975年のことであるから,海外旅行者の数をのべ人口で合計してみると, これ2タ