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概要

20_1964-1983

碁● 顔● ″ ● 鸞こうしたもろもろの制限は日本経済の復興とともに徐々にやわらげられ,私費による渡航も可能になってきた。また貿易収支が安定しはじめると,外貨の持ちだし枠もゆるやかになり,最終的には完全な自由化がおこなわれるようになって, 日本はいわば大衆的規模での海外旅行の時代に突入したのである。とはいうものの,右にもみたように日本の国民所得とアメリカの国民所得とのあいだには大きなひらきがあり,また為替レートも360円という時代が長期にわたってつづいていたから,物見遊山つまり「観光旅行」としての海外旅行といったようなものは,一般庶民にとっては高嶺の花という以外のなにものでもなかった。海外旅行者とはいうものの,海外での活動をその生命とする輸出入業者が業務のために社員を派遣するというのがその大部分であって,「観光」を目的とする海外旅行は1960年代の後半になってからだとわたしはおもう。じじつ,わたしは最初の渡米のあと1959年にスタンフォード大学に研究のため招へいされ,63年にはアメリカ中西部の大学で教壇にたったが,飛行機のなかでの乗客たちをみると,その大部分は外国人であり, 日本人の数はどちらかといえば少数派に属していた。67年にヨーロッパに行ったときにも観光旅行を目的とした日本人の数はすくなく,機内で名刺を交換したりしても,乗客の大部分はメーカーや商社の人々だったのである。もとよりこれらの人々も業務とはいうものの,その渡航中に多少の休日はたのしんだにちがいない。だが,ひとことでいえば1960年代までの日本人の海外旅行は,あくまでもビジネスを中心としていたのである。そのかぎりで会社員のばあいも,またわれわれのような学者のばあいも, この時期まで依然として「洋行」の伝統のうえに存在していたようにおもわれるのである。大衆観光時代の幕開けジャンボ導入でテイク・オフこうした「洋行」の伝統が消滅して,本格的な海外旅22行とりわけ大衆的観光旅行がはじまったのは,1970年以降のことであった。そして,そうした大衆規模での海外旅行を可能にしたのは航空機の技術革新, とりわけボーイング747,つまり通称ジャンポ機とよばれる大型旅客機の開発によるところが大きい。この飛行機はそれまでにつかわれていたDC7,DC8など,200人足らずの乗客を定員とするのではなく,350人,ばあいによっては400人を輸送することのできる国際的大量輸送機関として,1970年にはじめて就航した。わたしもその年ジャンボ機が飛びはじめたとき,学会出席のためこの飛行機にはじめて乗ったが,客室内の広さは在来の飛行機の観念をまったく感じさせないほどゆったりしたものとなっていたし,また, スピードも格段に向上をとげた。ついでながら,わたしが1954年にはじめて乗った太平洋横断の飛行機は「ストラトクルーザー」という4発のプロペラ機であり,燃料補給のため,羽田を飛びたったこの飛行機はまずウエーキ島で1泊し,翌日はホノルルでさらに1泊して,機体の点検整備をおこない, 3日めにやっとアメリカ西海岸にたどりつく, といったきわめてのんびりした飛行機だったのである。それがジェットプロップのDC7になり, さらにDC8になって,本格的にジェット化がおこなわれ,太平洋横断無着陸飛行がこの時期になってやっと可能になったのだ。だから, こんにちいう意味での海外旅行が本格化したのはすくなくともジェット旅客機登場以後のことであり, とりわけ1970年にはじまるジャンポの導入時期をその原点にしている,とわたしはかんがえる。じっさい過去の統計をしらべてみると,1960年つまり昭和30年代半ばの日本から海外への旅行者数はわずか年間数万人であったにすぎないのだが,1965年になって,これが一躍70万に増加したことがわかる。そして, この時期になると,パンナム, ノースウエスト, といったようないわば航空業界の老舗はもちろんのこと, 日本航空もジャンボ機を飛ばすようになっていたし, さらにヨーロッパの各航空会社も国際線の主力機種をジャンボ機にきりかえた。そればかりではない。シンガポールやタイのような東南アジアの発展途上国も続々とジャンポ機を国際線に就航させるようになった。座席数がふえ,かつ便数がふえた以上,各航空会社は旅客の獲得競争に狂奔