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概要

20_1964-1983

がわれる。ちなみに この使節団をのせた「アメリカ号」という船には,のちに津田塾大学を開設した津田梅子も同乗していたし, また中江兆民もおなじ船でアメリカにわたった。これだけの重要人物が日本をはなれてしまったわけだから,その間に「征韓論」をめぐって紛争が生じ,国内の治安がみだれるといったようなおもいがけないできごとも発生してしまった。だが,かれらの「洋行」がこんにちの日本の政治社会の原型を形成することに深く寄与したことはここでいうまでもあるまい。それほどの犠牲をはらってでも,「洋行」によって近代国家をつくりあげようとしたのが,そもそも日本の近代というものであったのである。このような伝統的意味での「洋行」の観念は, いわば第2の鎖国期とでもいうべき太平洋戦争終了直後の日本にも存続した。いや,戦争という異常事態のもとで正確な世界像を把握することが困難になった時期があったからこそ,戦後の日本もまた「洋行」を各界の指導者たちに経験させることによって, 日本の再建をはかることにしたのである。もっとも,敗戦後の日本の国家財政は国費をもって大量の政治家や学者たちを外国に派遣するだけの余裕はもっていなかったから,財源は主として外国, とりわけ戦勝国たるアメリカにあおがなければならなかった。またアメリカとしても日本の社会に民主主義を定着させるためにえらばれた若い将来の指導者たちを招待して,アメリカ社会の現実にふれさせ,またアメリカの大学で勉学の機会をあたえることを,その政策の一環として組み込むことに熱心だったのである。このようにして,戦後最初にアメリカに「洋行」した人々はガリオア資金による留学生であって, このグループの人々がこんにちの日本の指導者たちのすくなからぬ部分を形成している。それにひきつづいて, フルブライト委員会が発足し,アメリカヘの留学生の数は1960年代から増加しはじめた。アメリカだけではない。ヨーロッパ各国も文化交流という見地から日本の留学生を各国政府の国費によって,招へいする計画をたてはじめた。もちろん政府関係者や主要商社など,重大な業務にかかわる人々については,海外渡航の特別な枠がもうけられ,戦後の日本にはふたたび「洋行」者の数が徐々に増えはじめてはいたけれども,外貨事情がきわめて厳しい状態のもとであったから, 日本人の海外渡航に関してはきわめて厳密な条件がつけられていた。観光旅行は高嶺の花私事にわたって恐縮だが,わたしがはじめて交換留学生としてハーパード大学に行くことを許されたのは1954年のことであって,すでに敗戦後10年ちかくを経過していたが,その時点でさえ往復旅費をハーバード大学が負担するという,旅費に関する証明書その他多くの煩雑な書類が海外渡航のためには必要であり,かつ日本からわたしが個人的にもちだすことのできる金額は50ドルと限定されていた。もちろん50年代のアメリカはコーヒー1杯が10セントの時代であったし,ホテルの宿泊費も1泊10ドルあればどうにか過ごすことができた時代であったから,50ドルという金額はさしあたり数日間の生活をまかなうには充分ではあったけれども,その50ドルをポケットにいれて日本をはなれたときにはすくなからぬ不安感があったことをいまでもわたしは記憶している。ちなみに当時の為替レートは1ドル360円であり, いっぽうわたしが京都大学の助手としてうけとる月給が6,000円であったから,50ドルとvヽう金額はわたしの月給のほぼ3ヶ月分に相当した。こうした渡航制限はその後もつづいた。まえにものベたように日本は,貿易立国をめざしていたから,輸出入関係の会社には特別枠がもうけられ業務渡航を許可される人々の数は年々増加したが,それでも外貨持ちだし枠は限定されていたし, またわれわれのような学者のばあいには私費による渡航などはほとんど例外なくみとめられることはなかった。いやそれだけの余裕のあろうはずがなかったのである。外貨持ちだし枠もそのまますえおきであった。そして,50ドルという最低限度の外貨持ちだしの枠内ではとうてい外国での生活は維持できなかったから, こうしたかぎられた人々のあいだではひそかに闇ドルの売買がおこなわれ, 1ドル400円といったヤミ相場が関係者のあいだではほぼ暗黙の常識となっていた記憶がある。21