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概要

20_1964-1983

1977年 ダッカ0ハイジャック事件恐怖のハイジャック体験0萩原哲夫氏乗客の無事だけを祈って耐えた5日間〔萩原哲夫氏略歴〕1950年生まれ。横浜出身。74年4月日本航空榊入社。76年8月ヽ78年10月旅行開発関出向。その間にグッカ・ハイジャック事件に道遇。78年10月日本航空ヘ戻り,現在,東京支店国際代理店販売部代理店販売課販売主任。「DC-8機内前部のざわめきが後部に伝わって目が覚めました。ビストルを構えた男たち5人によってハイジヤノクされたと気付くまで, どのくらいかかったでしょうか。短かかったようでもあり,長かったようでもある」。1977年9月28日深夜に発生した,パリ発東京行日本航空南回り便(乗員。乗客156人)の′`イジャックは,はじめ, スローモーションの映画を見るようだった一 「ジャルパック・ヨーロッパ21日間の旅」36名の添乗員としてその場に居合わせた萩原哲夫氏は,事件発生の様子をそう説明する。萩原氏の客36名は,DC-8後部の座席で睡眠中。日本へ帰れる安心感で,眠りはさらに深かったろう。5人のハイジヤンカ~を乗せたDC-8は,やがてグノカヘ着陸,落ち着いてくると,萩原氏は,乗客を事故なく,無事に解放するため全力を尽くさなければ,と考えはじめる。「駐機中,Ⅸ}8の冷房はエアコン車にベンチレーターを動かしてもらって作動させますが, ダッカでは最初, これが付かない。機内の温度がグングン上がり,30数度にもなったでしょう。首から滝のように汗が出る。疲れて眠ったり,起きたり。そんなことが続くと, もう,何も考えられなくなる。若い私がそうなのですから,年輩の人は大変だったでしょう」。「長い時間坐りづめだと足がなえて,手洗いに行くときも普通に歩けない。スキを見て,何かできるだろうという人もいるでしょうが,そう思っても身体がついて行かない。ノ`イジャッカーのいうがままにしていないとダメ, ということになります」。目の前に近々と銃を突き付けられたときは本当にこわかったと語る。ダッカには3日間いた。その間, 日本政府と,解放条件の交渉が続けられ,数回に分けて,計118人が解放された。「日本赤軍が身代金をいくら取ったか知りませんが,人の命は地球より重い一―乗客全員が無事だったのですから,何よりと思います。しかし, もう思い出したくない。あのような体験は,最初で最後であってほしいと願うばかりです」。1977年 第 !回JATAコングレス開催会議を提唱した兼松學氏国際摩擦の徴候を対話で解消〔兼松 學氏略歴〕1912年生まれ。35年東京大学卒業後,鉄道省入省。62年から日本交通公社,72年代表取締役副社長,76年代表取締役副会長,78年取締役。JATA(日本旅行業協会)関係では,67年理事,70年常務理事,75年副会長,77年会長に就任,現在に至る。JATAコングレス(日本。国際観光会議)開催に貢献。UFTAA(旅行業者協会世界連盟)理事を8年間務めた。「日本人の海外旅行が盛んになるにつれて, 日本側と受入れ側の認識のズレが目立ってきました。日本人旅客の振舞いやリクエストの特異性,催行が不確かでキャンセル率が高いこと,ネームリストがそろわぬことなどで, 日本側と受入れ側の間にトラブルが起こる。契約の仕方,取引方法の違いまで問題になる。渡航自由化以来,伸び続けてきた海外旅行だが,国際的な相互理解がともなわなければ不信感が生じ,今後の発展も阻害される。そこで,国際的な相互理解を深める場を持とうじゃないかということでスタートしたのが,JATAコングレスです。第1回は,1977年に東京プリンスホテルで開催しました。会費が高いとか,損したらどうするかと反対した人もいましたが,大筋でまとまりました。海外から800人を超える関係者が集まり,盛会でした」と, コングレス開催に最も意欲的だった兼松學氏は語る。日本人は国際会議に慣れていないし,出席者の発言も少なかったが,海外から参加した人たちが述べる意見を, 日本で直接聞けたのは収穫だったという声が多かった。と同時に兼松氏は,海外からの参加者も, 日本の事情への理解を深めてくれた, とみる。「日本人の例は少ないが,外国人参加者は,JATAコングレスに出席して有意義だった, 日本への理解に役立った, と手紙をくれる。これで,参加者の反応がわかるわけです」。外国からの参加者は,一口に|~トラベル・エージェント」といっても,欧米の“パパ。ママ代理店"もあれば, 日本のように企業としてしっかり経営されているものもある, というところまで見てくれたはずだ。国際観光振興会や日本航空からのサポートが, コングレスを盛り立てた。「皆さん,献身的にやってくれるので,苦労話もないうちに83年の第4回まできてしまいました。JATAの特色は,“ なんとなくコンセンサスができる"というところで, コングレスも, 日本の旅行産業発展の場の一つとして,無理なく開催している。運営面で黒字なのも特色です」。rび2ゝ二ddL■hぃ場貯=4ヨ「璃猥ヽ囃