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概要

20_1964-1983

1965年 ジャルパック誕生パッケージ0ツアーの生みの親0伊藤恒氏親に内緒の姉妹を送り出したことも……伊藤 恒氏略歴」同志社大卒。1954年日本航空入社。61年5月,シカゴ営業所勤務。64年12月,東京支店日本地区国際旅客販売課長。66年6月,営業本部宣伝課長。72年12月,米州地区副支配人。75年5月,営業本部旅客部長。81年9月から欧州アフリカ地区支配人。今,ホールセーラー各社が華やかに妍を競うパッケージ・ッアーを,わが国で最初につくったのは日本航空である。伊藤恒氏をヘッドに伊東俊一郎氏(現営業本部JALカードサービスセンター部長),塩月光男氏(現秘書部長)などが中心となって企画をすすめた。歴史に残る「ジャルバック」第1陣(ヨーロッパ・コース)が羽田から飛び立ったのは1965年4月10日のことであった。パッケージ・ツアーの準備が本格化したのは, シカゴ営業所から帰任した伊藤氏が,新設の日本地区国際旅客販売課の初代課長に就任した64年12月から。伊藤氏の脳裏にはパッケージ。ツアーを利用して,年中行事のように世界各地へ出かけるアメリカ人の姿が焼き付いていた。伊藤氏がまず心がけたのは, 日本人が観光の目的で自由に(言葉の心配もなく)日本語で, 1人でも安心して,気軽に海外へ行けるようになったことを,全国津々浦々の人々に認識してもらうことだった。「航空会社が表面に出て,大宣伝力と機動力を駆使して海外旅行の大衆化を目指し,新しい旅行形態を提供したことは,一部で歓迎されつつも,相当な反対がありました。しかし, この動きが旅行流通業界を刺激し, 日本人の海外旅行の発展を数年早めたと信じています」。ジャルパックヘの反響は,期待以上に大きかった。だが,実際の送客に結びつける努力も, コンスタントに行なわれた。新聞広告の資料請求クーボンを送ってきた顧客を, 日本航空の社員が戸別訪問して歩いたのがその一つ。また,親の同意が得られない北海道の薬局の姉妹が, 日本航空のセールスマンを通じて,旅行用荷物を数回に分けて,伊藤氏まで小包で送付。友人訪間を口実に上京し,伊藤氏が用意したスーツケースを持って,欧州旅行へ旅立ったこともあった。「当時はグループごとの結団式,機外での記念撮影,海外支店長の歓迎夕食会など,水も漏らさぬ体制で臨んだため,時間的・体力的にグロッキーになることもしばしばでした」一懐しく回想する草創期の奮闘である。19661「 FG丁0髪彗メ己初代会長のマーチン・ブレイ氏パンフンット課税の動きに結束した観光局〔マーチン・プレイ氏略歴1 1963年4月から67年8月まで,USTS(現UTTA=米国商務省観光局)の初代日本支局長を務め,FGTO(在日外国政府観光機関協会)の初代会長も務めた。ハワイ在住。現在、パシフィック・アイランド・クラブ(=PIC。本社ホノルル)のPR担当副社長として,オアフ島ハワイ・カイに建設中のプロジェクトに取り組んでいる(PICは、グアム島の施設が有名)。日本の海外旅行自由化に前後して,米国,英国,イタリア, ソ連などが,相次いで日本に政府観光局を開設した。その狙いは,増加が見込まれる日本人海外旅行客に対する,自国の効果的なプロモーション。USTS(米国商務省観光局)の初代日本・アジア地区担当ディレクターのマーチン・プレイ氏は, 日本市場を有望視した理由として, 3つの具体的な事柄を挙げた一①修学旅行,社員旅徹代表される日本人の旅行習慣 ②海外に対する日本人の関心の高さ ③将来の海外旅行に備えた日本人の旅費積み立て額の多さ。「三浦按針の気持で日本にやってきた」というプレイ氏だが,やがて日本政府の態度変更に悩まされる。日本政府が,観光関係のレブレゼンタティブは私企業の販促を行なっているので,政府の正式な代表と見なしにくい。それで,パンフレットなど印刷物に課税する, と通告してきたのだ。「当時の日本政府には,アウトパウンド●ツーリズムヘの認識がなかったようです」。これはUSTSだけでなく,各国の政府観光局東京事務所が共通に直面していた問題だった。そこで, これを含めたいろいろな問題に1固としてでなく,一つの機関として対応するため,「FGTO」(Foreign Government Tourism Organi―Zation)が創設された。正式発足は1966年2月15日。参加したのは9ヵ国の政府観光機関。ブレイ氏が初代会長に選ばれた。「当時,世界は“冷たい戦争"の真最中。だがツーリズムに関する限り,西欧圏と東欧圏は“デタント"状態にあり,深い友情に結ばれていた」と,振り返る。USTSとしての思い出は,「1962年ころ,浅草に『新世界』という大きなキャパレーがありました。ところが,当時,ニューヨークの有名な広告代理店が考えた標語が“Travel A New World一See the USA"。その日本語訳に“新世界への旅"となるが,“新世界"では誤解を招くのではないかと悩んだ」ことが懐しい。■■■′テ∂亦□■陶闊鬱甲口電