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概要

20_1964-1983

た座席供給量と,パルクに代表される低運賃の導入は,年ごとに高まり始めていた海外旅行熱に一挙に火を付けることになり,第1次石油危機までの5年間の平均伸び率は,実に50%増という爆発ぶりであった。起爆剤となつたバルク運賃の登場60年代後半が大量輸送。大量販売時代の基礎固めの時期であり,制度確立の時期であったとすれば,70年代前半は文字どおり,需要と供給がかみ合い,相乗効果の中で,マス・ツーリズムが一挙に開花を遂げていった時期である。>70年1月:太平洋にパルク運賃発効レ同。3月:大阪万国博覧会開幕>同。3月:パンアメリカン航空のジャンボ。ジェット1番機が羽田に飛来>同。7月:日本航空, ノースウエスト航空もジャンボ投入開始>同。11月:全日空が近距離国際線チャーターに進出(香港へ調査飛行)>同・12月:新旅券法の施行で,観光目的にも数次旅券を発給>同。12月:国際収支,史上最高20億ドルの黒字を計上レ71年4月:東南アジア線にバルク運賃発効>同。10月:円の持出枠10万円に増額レ同。11月:旅行業法施行。旅行業者のIイ2登録制実施,法的責任明確化以上は,大量輸送時代が開幕した70年から翌年にかけての主な出来事を列記したものだが, ざつとみただけでも,70年代初頭が,わが国の航空・旅行史上, きわめて活発な動きにいろどられて,話題性に富んだ年であったことが十分わかる。ジャンボ。ジェットがもたらす大量の座席を効率よく捌く目的で導入されたバルク運賃に40席以上の一括買取制でノン・コミッショナブルという,ホールセーラー//ツアー。オペレーターの存在を前提とする, まったく新しいタイプの運賃だった。思いきって安い運賃を提供するかわりに, リスクをツアー。オペレーターである旅行業者にかぶせるというバルクの斬新さは大量輸送体制の根幹を成す運賃制度と,当初注目を集め,大手旅行業者を中心に積極的な取組みもみられた。が,手数料なしにもかかわらず,消費者に裸値が知れてしまい,主催者たる旅行業者の値付けのメリットが実質的に得られず,かつ,40人の最低買取単位のリスク負担が重すぎる一などの問題点が指摘されるに及んで,結局,その後は有名無実化されてゆくことになる。とはいたバルク運賃が引金となって続々と登場することになる廉価パッケージ・ツアーは,大衆海外旅行市場の底辺拡大を一挙|′C促す起爆剤となった。黄金時代ハネムーン旅行の海外化が急速にすすみ,OLや学生に代表されるヤング層が海外旅行マーケットの中心に踊り出るとともに台湾,韓国などの近距離東南アジア旅行も,チャーター便の多発化などによって,一挙に火が付き始めた。60年代後半の先発パッケージ群に続き,第2次ホールセーラーの相次ぐ誕生を迎えたのも, この時期の特徴だ。72年に残る大手旅行業者の2つであった近畿日本ツーリストと日本旅行がそれぞれ,「ホリデイ」と「マッハ」を発売,73年にはSIT(=SpeCial lntereSt TOur)や高額ツアーに焦点を絞ったヴィーヴルの「ヴアリューツアー」も誕生,急テンポに拡大する市場のセグメンテーションと,それによる商品の多様化が急ビッチで進んだ。中小業者もホールセーラー化の宣言こそしないものの次々とパッケージ商品を開発し,「造れば売れる」,「座席があれば商売ができる」という言葉が飛びかうほどに爆発する旅行需要に支えられての新規参入が相次ぎ, ブランド商品は,百花練乱のにぎやかさとなった。一方,大衆海外旅行体制が急ピッチで進展するにつれ,それに即応した旅行業者のあり方が問われ,法的責任問題が顕在化してきたのも,70年代前半の特徴だった。数年越しで旅行あつ旋業法の改正を検討していた運輸省観光部は,登録制実施と,旅行業者の法的責任の明確化を柱にした「旅行業法」を71年5月公布,同年11月に施行した。この新法によって登場してきたのが,旅行の取引責任者ともいうべき,旅行業務取扱主任者制度である。同制度に移行措置として当初,主任者資格を一定条件を満たす者に付与したり,その後も経歴認定制を次期の法改正まで残すなど,国家試験を裏付にしているにもかかわらず,それほどの権威を伴ったものとはならなかった。しかし,必要条件さえ満たせば旅行業の登録ができることから生じ・や響呼 _.響」L. .. ・ぬ、1饉轟,.蒸.薫【魚:怠‐..1‐‐|1意‐1飩≧八饉繭鰺轟饉□■■1落ヽ\、、、鶴鶴ヽどF慰・¬」「… R