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概要

20_1964-1983

19741974年は石油ショックの影響が色濃く現われた1年であった。73年10月の中東戦争を契機とするオイル・ショックは,石油依存度の高いわが国経済に大きな衝撃を与えた。物価騰貴と消費節約は,観光需要全体を抑制し,前年まで破竹の勢いで伸び続けてきた海外旅行も手控え傾向が顕著で,74年の海外渡航者数は対前年比2.0%増の234万人にとどまつた。混乱と不況感が渦巻く暗い1年だつた。燃油費高騰でさみだれ式航空運賃値上げ1973年秋のオイル●ショックに端を発した世界的な経済不況は,74年になって一層深刻さを増し,航空輸送業界に需要の減退,燃油費の高騰という形で深刻な事態をもたらした。日本航空国際線の燃油費は,73年度上期の65億円から74年度上期には230億円と35倍,一挙に165億円もの費用増となった。このうち燃油費そのものの単価引上げによる増加は164億円(99.4%),使用量の増加によるものは,わずか1億円(0.6%)であった。燃油費高騰をカバーすべく航空会社は,小刻みな運賃値上に踏み切った。 1月20日に太平洋線4%,東南アジア線,ヨーロッパ線6%値上げ, 3月25日に全路線の普通運賃を3%,団体運賃等は7%値上げ, 7月15日に全路線一律4%の値上げ,10月8日に東南アジア線5%,コーロッパ線4%,11月1日太平洋線8%値上げと,それまで一年ごとに値下がりしていた運賃は一転, さみだれ式の1直上げとなった。しかし,燃油費の増加分は到底カバーしきれず,収支悪化を改善する決め手とはなり得なかった。燃油費の高騰は単に一時的なコスト増ではない,深刻な経営問題にまで発展した。燃油が上がれば,運賃を上げたい。しかし,そのことによる需要減退は,航空会社の経営を一層圧●昭和イθ卒迫するという悪循環となった。オイル・シヨンク前,航空業界は大型機投人により供給増への最烈な競争を展開してきた。単位当たりのコストを下げ,それによって安い航空運賃を提供すれば,需要の開発となってさらにハネ返ってくる一― という大量輸送。大量販売というセオリーに支えられてきた航空業界が,オイル・ショックを機に大きな軌道修正を迫られたのである。74年は航空業界にとって, スペースの大量供給を武器としたシェア争いから,イールドを柱にした収益競争への幕開きの年でもあり, また,チャーターの利点が,大量輸送の手段という従来の概念から,貴重なエネルギーの効率利用を図るというエネルギー問題を加味して新たに見直されるようになった年でもあった。オイル0ショックの影響需要停滞で投げ売り乱舞73年まで年間平均30%以上の伸びを続けてきた日本人海外旅行者数も74年に入ると,オイル・ショックに端を発した不況の波をもろに受け,はっきりと停滞傾向をみせた。74年1月から10月の期間で, 日本人海外旅行者数は約200万人で,対前年比8%の増加をみせたが,オイル・ショックの影響が最も色濃く表われたのは, 4月から10月までの7ヵ月間で, この期間は未曾有の落ち込みとなり,対前年比22%減を記録した。海外旅行自由化後10年目にして,驚異的な伸びを続ける海外旅行という“常識"は,完全に覆された。しかし一方, こういった状況にもかかわらず,12月には海外旅行者数は,ほぼ前年同月と同じ水準にまで回復,他の高級耐久消費財が売れ行き不振に喘いでいた中で,それでも対前年比2.0%増の234万人を記録したことは,根強い海外旅行需要をうかがわせた。海外旅行需要の停滞で, この年観光目的の旅券発行件数は13.4%も減少,観光渡航自由化以来初の出来事であった。石油危機の直撃波をもろに受けた旅行業者が,厳しい現実を迎えることになった要因としては,①総需要抑制策によるインセンティブや共催旅行市場の落込み,②「観光は不要不急」という政府の方針によって引き起こされた“自粛ムード"とチャーター便の規制,③持出し枠の縮小(3,000ドルから1,500ドル,10万円から3万円に)や,手続きの複雑化(新役務契約)となって現われた外貨規制とその心理的な圧迫感,④前後4回にわたる国際航空運賃の値上げと,それに伴うパッケージ商品の価格引上げ,⑤ 出国日本人の3分の1を占める台湾・韓国旅行の低迷― などが挙げられ,実にさまざまな形で一挙に噴出した。こうした中で,大手業者を中心とした凄まじいパーツ卸し競争,エアの投げ売り,格安航空券が乱れ飛ぶという状況を呈し,新たな形のシェア争いが始まったが,人件費をはじめとする諸経費の異常な高騰により,旅行業者の多くは資金難,経営難への道を辿った。需要滅退下ω 蓄しい乱売合戦|1中路線開設で本格的中国旅行時代)¨1972年9月29日の日中国交正常化以来,早期締結を目指して話し合いが進められてきた日中航空協定は,74年4月20日,北京で小川駐中国大使と姫鵬飛外相との間で正式に調印された。その後,再度にわたる当局間交渉,企業間交渉を経て, 8月27日に日中航空当局間で技術および機材に関する取決めが, 8月30日には日本航空,中国民航の間で企業間取決めが調印され, 日中国交回復2周年目にあたる9月29日,記念すべき定期航空第1便が相互に運航された。選航スケジュールは, 日本航空がDC-8-62で東京/大阪/上海/北京(月曜),東京/北京(水曜)の週2便,>石油危機による国際線航空運賃第1次値上げ(1月)レ運輸省が一般登録基準引上げ(1月)レトルコ航空機がパリ郊外で墜落(3月)レJATAが旅行業綱領制定(3月)レー般渡航外貨枠1,500ドル,円貨枠3万円に引下げ(4月)>日中航空協定調印(4月)レロ台航空路運航停止(4月)トパンアメリカン航空機がパリ島で墜落(4月)レノースウエスト航空がnTA脱退(5月)β〉,″ニュー旅行業界重大