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概要

20_1964-1983

STはそのスピードにおいてジャンボを進かに凌駕していたにもかかわらず,現在に続く空の大量高速輸送の主役とはなることができなかった。―・つにはその輸送キャパシティがその後の国際旅行マーケットのニーズに合致しなかったことが挙げられよう。 しかしながら, コンコルドが“騒音"という先進諸国が競って採り入れた社会的環境基準をクリアできなかった技術的限界も忘れることができない。一方,ボーイング747型機は,その開発期間が異例に短かったが,信頼性は極めて高く,また,経済性という点においても非常に優れたものであった。また,コンコルドが当面した騒音の問題も,新しく開発された優秀な人11径ターボ。フアン・ジェント・エンジンによって難なく克服し,むしろ在来機の標準を下回ることができるほどであった。こうしたジャンポの優秀性は,現在に到るもなお,世界の主要航空会社によって主力機として運航されている事実によって実証されているといえよう。定期路線へのジャンポ機の導入は,そ来訪1970年最大のイベントは, 大阪における万国博の開催である。万国博は国内旅行需要を刺激して,“民族大移動"といわれる一大観光ブームが出現した。白書によると,1970年の宿泊観光レクリエーション総量は8,300万人回,対前年増加率は16.9%に達する。一方,海外旅行は、万博の影響を受けて伸び率が低下するものと予想されたが,結果的には全体で対前年比31.5%増の93万6,205人,沖縄への渡航が24.4%増の27万2,738人,沖縄以外への渡航が同じく34.6%増の66万3.467人と、従来の増加傾向を一応維持した。こうした傾向は渡航|1的別でも表われており,業務渡航が対前年比14.2%増(70年は1~ 11月・旅券法改111で12月以降の集計は不可能),観光が同じく29.8%(同)と増加傾向を維持している。Fl書は万国博開|1主にもかかわらず,海外旅行が増加し続けた事態を,バルク運賃導入による旅行経った。新しく施行された旅券法の目玉は, 5費の低ドと,業者による団体募集の活発化の結果と分析している。反面,万国博が外客誘致に果たした役割はきわめて大きい。万国博が開催された70年3~ 9月の月別来訪外客数は,前年をそれぞれ3~ 6万人ほども上回り,通年で対前年比40.4%増を記録した。白書によると万国博に入場した外国人は170万人と言われる。しかし入場者に占める外国人の比率は,かつて白書が予測したほどの水準には達しなかった。また,インパウンド観光の好調に支えられて,国際観光収支は再び黒字転換した。の輸送キャパシティに見合った需要の拡 パルク運賃による割安な海外旅行の実 ,年間有効の数次往復用旅券。これによ´,大を不可欠なものにした。同時にまた, 現,およびジャンボ機の導入による大量 |て渡航手続きの合理化が可能になり.旅その経済性は大量需要を刺激するトリノ 輸送化などの条件が整ってきて, 日本人 行業界はもとより.´般の海外旅行者のガーとしての役割をも果たした。つま の海外旅行ブームもようやく本格的にな 間でも諸手を挙げて歓迎されることになり, ジャンボの登場こそ,旅行産業のメ る機運が出てきた。政府はすでに この った。ルクマールにほかならなかったのであ 年の3月に持出し外貨の制限を緩和し、 1970年法改正による旅券の取得に要する。そして,それは奇しくも1970年とい 従来の700ドルから1,000ドルとした。 る費用は,1回往復用旅券が3,000円うキリのよい年に出現したのである。 1970年12月に行なわれた旅券法の改正も (現4,000円)、数次往復用旅券が6.0∞円(H.1.) こうした時代の趨勢に対応するものであ (現8,000円)となった。???|???|? |??????|???|???????|??????|? |????|????????|? |?????l? |????|???????????l? |??????l??|???????|??|???|?????|? l????????|? |?????|>公衆電話の市内通話, 3分間単位に(1月)レ「よどケ|ノ`イジャ′ク(3月)レ|1本万国博覧会開幕(3月)レ八幡・富|:合併で新ll鉄発足(3月)>日米安全保障条約自動延長(6月)>都内で光化学スモ′グ発生(7月)>東京で「歩行者天国|スタート(8月)>「ディスカバー・ジャパン」で旅行ブーム(10月)レ三島由紀夫が自衛隊に乱入して制腹白殺(11月)IIタPAジャンボー番機到着操縦席の上部が異様に盛り上がった巨大な胴体をもった飛行機が,パンアメリカン航空のマークを光らせながら夜の羽田の上空に姿を見せた。時に1970年3月11日,定期便として初めて東京国際空港に飛来したジャンボ。ジェット(ボーイングB-747)であった。午後8時22分,ノヾンアメリカン航空のクリンパ~° キツトカ~スン号はチ定より3時間遅れでフィンガーに到着した。一番機はB.アンダーソン機長以下クルー20名,乗客は167名を運んで東京にやって来た。アンダーソン機長は,「高度3万1,000~ 9,000フィート,速度580マイルを維持して東京に向かったが,向かい風が最大100ノットを記録するなど条件が悪く,到着がだいぶ遅れた」と,東京´番乗りの弁を語った。バンアメリカン航空はジャンボの導入にもっとも積極的な航空会社の´つで,乗客の積取り競争で激戦を繰り広げている太平洋線にライバルの日本航空やノースウエスト航空に先駆けて就航を決めていたもの。この日のフライトによって,すでに1月に大西洋線にジャンボを導入していた同航空は,文字通り世界の航空輸送レースのトップに1躍り出ることになった。ちなみにパンアメリカン航空の大平洋のライバル, 日本航空およびノースウエスト航空はそれぞれ, 4ヵ月後の7月1日,太平洋線の定期便にジャンポ機を導入し,太平洋パルク運賃の発効と相候って、海外旅行ブームを招来することになった。事1キ再録社会重大ニュース大阪万博で