ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

20_1964-1983

19701970年一新しい10年の始まる年として, 日本のあらゆる分野に活気と期待が渦巻いていた。1960年代に実現された「日本の奇跡」の自信が,それを一層輝かしいものとしていた。60年代の半ばにもつとも新しい産業としてテイクオフした国際旅行産業も,この年ようやく経済のパイの成長に寄与し得るイノベーティブな手段を手に入れようとしていた。大量輸送時代の幕開き―――であった。海外旅行大衆化の原動力大`「洋バルク運賃発効´般に国際旅行の経費に占める航空運賃の割合は極めて高いものであった。とりわけ,地理的に他の地域と隔絶されている日本の場合,その海外旅行マーケットの飛躍的な拡大を図るためには,航空運賃のツアー・プライスに占めるシェアを大幅に低下させることが不打欠であった。バルク運賃の構想は,すでに航空会社が設定していた各種のlT運賃を´層マーケット指向的に徹底させたものにほかならなかった。と同時にそれは旅行産業という新しいマーケティング・サブジェクトによるマーケットの開発を可能にさせる強力な武器でもあった。すでにマーケティングの専門家の間で論じられていた旅行の商品化と,航空会社を含めた旅行産業のマーケティング機能の分担を積極的に推進するインパクトと機会をもたらすものであった。日本のマーケットに関連したパルク運賃としては,すでに前年11月に「ヨーロッパoバルク運賃」が発効しており,年内に実際に最初のソアーが出発していた。この年,1970年の1月に発効した「太平洋パルク運賃|は,パルク運賃としてはいわば第二弾であったが,海外旅行の大衆化の決め手という点では, コーロッパの場合とは比較にならないほど重要な意味を持っていた。I12●昭和イj年日本の国際旅行産業でも,1968年ごろからホールセーラーというマーケティング・ファンクションが成立しており, こうした一連のパルク運賃の受け皿としての市場機能が形成されていた。一方,マーケットの潜在需要の動向という面でも, ツアー・プライスのある程度の引下げによって,大幅なブレークスルーの実現の可能性が非常に高まっていた。太平洋バルクの発効によって,ハワイおよびグアムという有力なデスティネーションの魅力をフルに生かした旅行商品が驚くほど低廉な価格で提供できるようになった。これらの商品はたちまち消費者の間に受け入れられ,ある意味では,今日まで続く``海外旅行ブーム"を生み出す最大のきっかけとなった。太平洋バルクは,単に旅行産業にプロフィットをもたらしたというばかりでなく,旅行産業の社会的基盤を確立・向上させ, さらには日本人の海外旅行のパターンを決定するという大きな影響と意義を持つものであったのである。効果も日覚ましく, 三和銀行の試算によれば総額3兆3,000億円にも及び, このうち交通関連産業の実績は900億円に達した。また,外国人旅行者も増加し, それに伴なう旅行外貨収入も3月以降ほぼ倍増を記録し, 3~ 9月期の通算受取額は1億6,000万ドルを上回った。しかしながら, 1人当たりの支出額は平均300ドルと,当初の見込みであった500ドルにはとても及ばなかった。とはいえ,EXPO'70の成功は,国民の間でこうしイベント中心の旅行需要の喚起に成功した大阪万博た国際的イベントヘの認識と理解を高め,そうしたイベントを中心にした旅行需要の喚起に有力な見通しを与えることにもなった。イクオフ大量高速輸送は本来,交通機関の経済効率を高めるため,あらゆる交通システムに共通のテーマであった。航空交通分野ではすでに航空工学のテクノロジーにおけるイノベーションが二つの方向で試みられていた。いわゆるヽTと呼ばれる巡航速度が音速の2倍以上の高速機のプランと,客席数が在来型機の2倍以上の広胴型機のプランであった。前者の代表が英仏共同開発のコンコルド,後者の代表が米国ボーイング社のジャンボ(B-747型機)であった。しかし, この両者を合わせたような巨大なSTは,この時期にはいまだ技術的な限界を逢かに超えた,遠い夢のような存在でしかなかった。大量輸み大量販売時代の蠣開きE国レ太平洋パルク運賃発効(1月)>大阪国際空港3,0∞ メートル滑走路完成(2月)レバンアメリカン航空のジャンポ1番機が羽田に飛来(3月)>羽田空港・税関にデュアル・チャネル・システム採用(6月)卜羽田空港にジャンポ専用ターミナル完成(6月)>日本航空のジャンボ1番機就航(7月)>日本航空がグアム線開設(10月)レ数次往復用旅券の発給緩和。有効期間5年に(12月)旅行業界重大ニュース1964年の東京オリンピック大会に続く国際的ビッグ・イベントとして, この年,EXPO'70が大阪で開催された。オリンピックが民族の悲願であり,かつスポーツの祭典であるとすれば,万国博はまさに日本経済の世界へのアピールであり,文字通り高度成長の祭典にほかならなかった。EXPO'70は,大阪のサパーバン。エリア千里丘陵に新しく造成されたEXPO会場で, 3月15日から9月13日までの183日間にわたって開催された。会期中の人場者は6,420万人(うち外国人客170万人)を超え, また,参加国数も77ヵ国を数えるEXPO史上でも最大規模の催しとなった。EXPO'70のもたらした直接的な経済曇|