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概要

20_1964-1983

ドル防衛策の―環として海外旅行の制限を打ち出したジョンソン米大統領の年頭教書は,早くも当時の中曾根運輸相発言「不要不急の海外旅行の自粛」となつて,わが国の業界関係者をひやりとさせたが, 日本人の海外旅行熱は一向に冷めず,むしろ本物になりつつあることを認識させる結果となつた。前年比27%増の市場拡大を背景に外国航空会社の新規乗入れが相次ぎ,香港・台湾旅行は団体チャーター便で賑わった。また,旅行会社主導型のホールセーラーが続々誕生したのもこの年の大きな出来事となった。旅行業の従業員の業務知識の不足に基づく,渡航者,関係機関とのトラブルの発生の激増に対し,外務省, 日本銀行から国際旅行業者協会(JATA,現。日本旅行業協会)宛に異例ともいうべき通告「旅行代理店従業員の業務知識の向上を図れ」が発せられた。後の旅行あつ旋業法の改正,旅行業法の制定,取引主任者国家試験制度の実施の一原因を成すことになるが,旅行代理店従業員の業務知識の不足に起因するトラブルの発生は,ある程度,海外渡航者の増加に伴う必然的な結果であった。東京オリンピックが開催された1964年の4月以降, 自由化された海外旅行は,3年後で初年度の2倍に 4年後のこの年には実に3倍弱に達し, 5年後には4倍強の49万3,000人を記録するほどの激増ぶりであった。旅券・査証の発給申請も,当時は数次旅券に発給制限があって,その分だけ業務量が増えた。通告に言われる業務知識の不足によるトラブル事例は,査証・航空券・旅券・外貨申請に関わる,ごく初歩的なもので,現在からみれば,省略・簡易化されたものも多く, いずれも注意すれば未然に防止できる事柄で,かつて想像できなIθ∂●昭和イθ年かった海外旅行需要の急激な拡大に申請業務の基本事項を従業員全員に徹底周知させる余裕がなかった旅行代理店側のお家の事情によるものであった。通告を受けたJATAは4月23日,第4回理事会で検討,「社員の訓練と業務知識の徹底」を各委員に対し緊急通達した。この通達は,その趣旨が末端従業員にまで到らず, 日銀はさらに5月下旬,「電話による問い合わせには今後応じない」ことを骨子とする渡航係窓口事務取扱いメモを作成し,再度,JATAに警告した。外務省,都庁の旅券中請窓口係からも「業務知識不足を云々する以前の問題」として数回にわたる忠告があった。JATAは以上の警告や忠告に対して日銀による業務講習会を開き,外貨申請業務を修習させ,税関,検疫所との懇談会,キャリアとの連絡会も定期的に開くようになった。しかし,従業員の業務知識が,基本的な教育の不徹底によるものであるうちはまだよかった。経験ある社員の払底から団体旅行の添乗員の手当てがつかず,果ては,全く経験のない若手社員を急造のツアー・コンダクターに仕立て,顧客にベテランであると偽り, ツアーを出発させてしまうケースが,少なからずあったことこそ,旅行業者不信の種を蒔くことになった。ていた東京/マニラ間をDC-8で週2便で復活,再開した。6月28日には, ヴァリグ・プラジル航空が,リオデジャネイロからリマ/.′/′ メキシコシティ/ロサンゼルス/ホノルルを経て,B-707コンビネーション(貨客型)で週2便,南米と日本を結んだ。ブラジル路線は,当時,移民の帰国が中心で,観光需要は少なかったが,貨物の伸長と日本企業のブラジルヘの進出によリビジネス客の利用が高く,後に週3便に増便された。観光の面でも, リオのカーニパル,イグアスの滝を目玉とするパノケ~ジ商品が開発され, リオ・カーニパルを組み込んだ「ボサノパ・ッアー」は, コーロッパ,ハワイヘのパソケージ・ツアーに比べ60~ 70万円台と高額商品であったが, リピーター向けを狙ったことで注目された。7月30日には,のちのサイゴン陥落と共に消滅したベトナム航空が東京から大阪経由でB-727型機による週2便の台北/香港/サイゴン路線をオープンした。次いで8月からは,新興のマレーシア●シンガポール航空(MSA,のちにシンガポール航空とマレーシア航空に分離)が,東京/台北/香港/クアラルンプール/シンガポール間に週4便,B-707型機を就航させた。ベトナム航空は,ベトナム戦争の進展と共にサイゴンヘよりも台北,香港ヘの団体チャーター便の利用率が多かった。B-727型の110席台のサイズが,当時,大流行した日本人の東南アジア旅行(主として香港,台北向け)の団体人数に最も適していたからであった。こうして東南アジアを中心とする各国のナショナル・キャリアの日本路線の開設は, 日本発着の東南アジア路線の供給座席を増大させ, 日本/台北, 日本/香港間の路線だけに限っても,就航全社の週間座席数は,軽く2万席を上回る結果となり,団体旅行の顧客の獲得をめぐり,航空会社間の販売競争は,一層激化続|々とホーノンセーノン商品力う誕生界(生回一)相次く゛乗入れ・増使急増した東南ア線の座席数1968年は,例年になく外国航空会社の:]本(羽田)への乗入れが相次いだ年であった。同年8月1日までに新規乗入れ会社は4社を数た 日本乗入れ会社は合計23社となった。また,路線の延長。便数増加を行なったのは7社で, 日本発の航空座席は急増した。新規参入を月別にみると, 4月3日にフィリピン航空が,昭和29年以来中止しレ米大統領が海外旅行制限を発表(1月)>日本交通公社がホールセールri:`:‐ (1月)>中曽根運輸相が, 不要不急の海外旅行自粛を発言(2月)レ東急航空がグアム商品をホールセエル(2月)レ運輸省観光局が 部」に降格(5月)レニコー・オリエント・エキスプレスが'ジェ′トツアー」発表(9月)レロ本交通公社が日本通運と業務提携、|ル′ク」販売へ(11月)旅行業界重大ニュース「ldFL