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概要

20_1964-1983

海外観光旅行が自由化されて2年目の65年は,64年が市場の二―ズを掴み切れず,幾つものトライアルを重ねたのに対し,航空会社主導ながら,相次ぎパッケージ・ツアーが発売されるなど,海外観光時代の具現化が実質的にスタートする年となつた。国民の海外旅行に対する関心が高まり,旅行業界は観光旅行市場づくりに,スロー・テンポながら積極的な対応を始めた。心配されたオリンピックの後遺症もなく, 日本社会は国際化への道を力強く歩みはじめた。航空会社間でパッケージ競争海外旅行の不安解消し好スタート1964年7月にスイス航空が,海外持出し外貨枠500ドル内で欧州7ヵ国を旅行する個人旅行パッケージ・ツアー「~プンシュ・ボタン」シリーズを発表したのに続き,65年には海外旅行パノケ~ジ・ツアーが続々と発売された。1月には日本航空が「JALPAK I, 5月にはアリタリア航空が|スペシャル・インタレスト・ツアー(SIT)|,翌6月にはパンアメリカン航空が|パンナム・ホリデーツアー_をそれぞれ発表した。これらのパッケージ・ツアーは航空会社が主体となって企画・宣伝し,IATA旅客代理店が販売。手配・添乗を担当する分業システムであった。旅行あっ旋業者は,不特定多数の観光市場に向けての宣伝力・資金力が不十分であったために,航空会社がイニシアチプをとる形でパッケージ・ツアーが芽生えた。翌66年1月にはルフトハンザ航空が「オイローパツアー」, スカンジナビア航空が|バイキングツアー|を発売した。さらに4月にはノースウエスト航空,アリタリア航空, キャセイ航空が東南アジア3都市(ソウル,台北,香港)を訪れる「NAC(ナック)ツアー|を合同で企画・発表した。11月にはェールフランスが「セシボン・ツアー|を発表する●昭和イθ年など,65~ 66年は航空会社がイニシエートするパノケ~ジ・ツア~が花を開き百花練乱となった。「コングクターが同行します」「日本語でも心配ありません」「支払いはお帰りになってから月賦でどうぞ」-1965年1月の「JALPAK」新聞広告のコピーは旅行者の不安に応えたアプローチで,「広告の反応は予想以上だった」(「旅行開発10年史」)。20日間のヨーロッパ・ツアーは乗用車なみの価格で70万円以上だったが,参加者には商店経営者,管理職と無職の女性が多かった。ちなみに 当時の大卒初任給は平均2万1,000円, ロードショウの入場料は450円だった。新生JATAが発足業界組織一本化する1965年2月25日,社団法人。国際旅行業者協会(JATA)は,東京。椿山荘で総会を開催して, IATA旅客代理店会の吸収合併を可決した。この結果,海外旅行業界は,三分化していた組織が一本化され,新生なったJATAが旅行あつ旋業界を代表する機関となった。この時吸収合併されたIATA旅客代理店会は,1953年4月24日に阪急,阪神, 日通,西鉄のIATA旅客代理店4社が組織した|~四金会」が母体となって発足した団体で,代理業務を委託した航空会社との業務折衝が結束した目的だった。一方,国際旅行業者協会は1957年2月9日に旅行あっ旋業者(運輸大臣登録)6社が集まり基本構想を検討, 2年後の59年6月10日に発足した。バンアメリカン航空がボーイング707型ジェット機を東京に就航させるlヵ月前である。63年11月8日には「社団法人」として認可されて, 自由化後には,IATA旅客代理店会との大同団結が図られ,65年の合併となったもの。新生JATAのスタートによつて,海外旅行マーケットに対し,旅行あっ旋業者側の組織体制が固まった。JATAは,旅券申請手続きの標準料金の設定,過当競争防止の呼びかけ,中堅旅行業者の社員教育などに着手し,業界の窓口ともなった。当時の所在地は東京・丸の内の日本交通公社内だった。|1航が「陛界一周線」獲得|1本企業の国際進出盛ん日本航空は,1965年に入ると国際線のネットワーク拡充に力を注いだ。5月1日には北回リパリ線(コベンハーゲン経由)運航開始,同2日・北回りロンドン線(ハンブルク経由)運航開始,同4日,南回リロンドン線(ニューデリー,パリ経由)運航開始, 9月には念願の日本航空世界一周線開設が認められた福岡/釜山線を大韓航空と共同で運航開始した。自由化以後の国際線実績は上昇気流に乗り,1964年以降,安定的な黒字経営を実現した。9月30日にはヽT(超音速旅客機)コンコルドを3機仮発注した。日航は,経営基盤の安定化と国際航空に対する認識の高まりを背景に,世界一周線の開設を目標にかかげていた。そのため64年から日本政府は米国に対して日米航空協定の改定交渉を続けていた。日本側は①不平等の是正,② アメリカ東海岸経由欧州路線の開設(ニューヨースも企業も「海外ヘフ海外へ.名>日本航空が「ジャルパッタ」発売(1月)>JATA(0国際旅行業者協会)とIATA旅客代理店会が合併(2月)>日本交通公社が外客対象に“産業観光ツアー"開始(3月)>戦後初の国産旅客機Y311が, 日本国内航空の東京/徳島/高知線に就航(4月)>大阪国際空港の深夜・早朝ジェ′卜機発着禁止(11月)レ日米航空交渉妥結。日本航空の世界一月線が可能に(12月)Iθ2旅行業界重大_ュース‐.豪■ 一