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概要

20_1964-1983

1948年には,国民の祝祭日が制定され,国鉄が,独立採算制の公社として再編された。特急列車「へいわ」が復活し,週末温泉列車も運行開始。戦争で疲弊した国民の間にも,観光旅行を楽しむ経済的・精神的余裕と旅への願望が高まり,観光行政の見直しを迫られることになった。1949年6月には, 日増しに増大す、る来日外客の応対に直接関わる通訳案内業法が施行され, さらに12月に国際観光事業の助成に関する法律と国際観光ホテル整備法が施行されるに及んで, ようやく“観光立国"への基礎固めが完了した。だが,それらはいずれも,受入れ側としての体制づくりの初段階であり,旅行業の概念も,外来客の国内旅行あっ旋業という捉え方が,つよかった。海外旅行業務については,その頃の日本人の海外渡航のほとんどが,政府などの公的機関関係者,公費留学生,移民などに限定されていたとはいえ,最大手の交通公社でさた外国部の片隅にわずか3名の担当者を配しているだけだった。頼りにされた“渡航弁護士"の腕1950年1月,GHQは日本人の業務渡航許可権を外務省に移管。以後,63年4月に業務渡航が大幅に緩和されるまで,トラベル・エージェントの“弁護士時代"が続いた。エージェントは,文字どおり旅客に代わって渡航手続き一切を行なう,いわば“代書屋"でもあるわけだが,その当時のエージェントは,それだけでは通用しなかったのである。GHQの統轄下では,連合国,中でも米国の占領政策,外交。経済上の利害得失を第一義に,可。不可の判断がなされた。それが日本側に移ると,今度は,政府の政策に合致するか否かが基準となった。経済復興を最優先し,貿易の拡大を最大の眼目としていた時期だけに外国為替及び外国貿易管理法という金科玉条の下で,文化交流や観光旅行は“物見遊山"と断定され,論外とされた。この判断基準の下に,大蔵省を中心に組織された渡航審査会が,毎週火曜日に審査会を開き,渡航申請書を徹底的にチェックした。大手商社の駐在,進出企業の商談なら,まず無条件OKに近いが,中小企業や私費留学生などの申請許可は難航。先方からのよほど有力な招待状などでもなければ,絶望的だった。ところが,そこはお役所仕事。形式さえ整っていれば,無事パスという次第。そこで,当時のエージェントは,いかにして彼らを納得させる理由をつけ,形を整えるかに腐心した。いってみれば,裁判における弁護士のごとき才覚と技量をも要求されたのである。ビザの取得もこれまた,非常に骨の折れる仕事だった。ことに講和条約発効以前は, 日本が独立国でないことから,特別に制限が厳しく,独立後でも, ちょっとした手続き上のミスや,競争の激しいこと|′こつけこまれて,金品を要求されることもあった, といわれている。代理店に早くも過当競争のきざししかも,IATAをはじめ運輸会社や外" 6215::ま黎外務大臣・吉田茂の公印を押した,1951年発行の旅券スカンジナビア航空の北回り1番機(1960年)国旅行代理店には,各々複雑な規則があり,運賃・料金の計算も多種多様で,その業務にも習熟する必要があった。そうした幾多の苦労にもかかわらず,収益面は必ずしも満足すべきものではなかった。所詮,政府の旅行者用外貨割当ての枠内で,数多くのエージェントが鏑を削っているに過ぎず, しかもその枠自体が景気に大きく左右され,まことに不安定であった。さらに航空運賃の低廉制(ツーリスト・クラス)の導入などもあって,取扱件数はふえても,実質収益は減少するという昨今と同様の現象も見られた。IATA公認代理店にも外国系の新規業者が続出し,競争の激化に一層拍車をかけた。しかし,各エージェントは,海外渡航部門の収益不足を貨物部門や国内旅行のあっ旋で補いながら,やがて来るであろう渡航の完全自由化に備えていたのである。スポーッ交流で動き出した海・外団体ツアー海外渡航部門にようやく光明が射し始めたのは,1951年。この年の5月, インド・ニューデリーで開催される第1回アジア競技大会に出場する日本選手団の渡航を皮切りに翌52年2月にはオスロの第6回冬季オリンピック大会,次いで7月の第15回オリンピック・ヘルシンキ大会への出場と,戦後の団体旅行は, まフ7`′::「'''1‐."..‐` ・・.・・摯``1・I“ユ,  ■ ロ来 日覆、ゝ二:ヽ´`ト―日「~¬■ L ■ミ`、…」■‐"燿T′ヽミ■嘲1 ″ 一二〓