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歩く旅の面白さ

2024年6月3日 8:00 AM

 私はこれまで野生のサルやゴリラを研究してきたので、ひたすら歩いて調査をしている。彼らは森の中に棲んでいて、車を使えないからである。そこには車では味わえない魅力がある。

 まず、森は見通しが利かないから、何が飛び出してくるか分からない。しかも、車という「ケージ」で守られていないので、生身の身体でそれに対処しなければならない。森の動物たちは音を立てずに気配を殺して動くので、ゾウやバッファローなど大きな動物でも近くにいるのが分からないことがよくある。突然出くわせば、向こうも驚いて襲ってくることがあるから適切な判断を下さないと大けがをするし、命だって危ない。

 だから、森歩きには経験豊富なガイドに先導してもらうことが不可欠になる。ガイドの案内に従って歩くと、危険を回避できるだけでなく、自分では気がつかないさまざまな森の仕組みに出会える。葉っぱの裏にかわいらしい虫が隠れていたり、おいしい樹液の飲み方を教えてくれたり、地表近くに作られている鳥の巣をのぞかせてくれたり、新しい発見が満載だ。

 ガイドは気温や風の舞い方、そしてさまざまな生物の気配から森の動向を読んでいる。自分の経験から何か違った動きを感知したら全身のセンサーを総動員して即座にその理由を悟る。それはいくら科学技術を発達させても到達できない能力の1つだ。相手が生物だからだ。生物は機械ではないので、いかにその特徴を情報として知り得ていても、その動きを完全に予測することはできない。

 まして森には多様な生物がいて、それらの1つ1つの動きが互いに関係し合い、連鎖して思いもかけない現象に発展する。例えば蜂に刺されて声を上げたサルに驚いてバッファローが水から飛び出し、岸辺で休んでいたイノシシを追い出して、道を歩いていた人に突進してくる、なんていうことが起こり得る。

 でも、森歩きはなるべく少人数がいいし、人との会話は控えたほうがいい。森の生きものは声で会話し合っているし、雨や風、木々や葉が立てる音に敏感に反応しているからである。聞き耳を立ててそんな生物の暮らしぶりを知ることが面白い。時にはじっと立ち止まったり、木陰に身を潜めたりして、静かに森を見渡してみるといい。

 虫や鳥やカエルやトカゲなどの小動物は、人間の足音をいち早く察知して動きを止める。こちらがじっとしていると、やがて彼らは動きを再開する。その時、予想もしなかった動物が目の前に現れることがよくある。それが森歩きの醍醐味を味わえる瞬間である。車で見て歩く草原の旅は、あらかじめ見られる動物を予測して、彼らが出現しやすい場所に車を走らせる。しかし、森歩きは予想できない出会いを楽しむ旅である。

 森歩きに慣れると、私はよく1人でゴリラの調査に出向くことを好んだ。私のガイドはゴリラたちである。人とは違った視点で森を見ているゴリラと一緒に森を歩くことで、私は森の仕組みをさらに深く知ることができるようになった。

山極壽一●総合地球環境学研究所所長。1952年東京生まれ。理学博士。人類進化論専攻。京都大学大学院理学研究科助教授、教授を経て、京都大学総長を2020年まで務めた。21年から現職。国際霊長類学会会長、日本学術会議会長などを歴任する。