2023年1月23日 12:00 AM
合理性を追求して発展してきた人間社会には、簡単で安くて便利なサービスがあふれている。しかしいま、あえて不便さの中に益を見いだす不便益という考え方が注目されている。そんな不便益という発想が旅行の分野にも広がる兆しが表れている。
20年以上にわたって不便益について研究し、ネット上のバーチャル研究組織「不便益システム研究所」所長を務める京都先端科学大学の川上浩司教授は、不便益とは不・便益ではなく、不便の益(benefit of inconvenience)の意味だと説明する。
例えば、メンテナンス不要の造花よりも水やりを怠れば枯れてしまう生花のほうが愛しく感じられる感覚や、わざわざ苦労を買って出るような登山の愛好家が多い事実を思い出せば、不便益について何となく理解できる。不便益システム研究所は「富士山の頂上に登るのは大変だろうと、富士山の頂上までのエレベーターを作ったら、どうでしょう?」と、不便の益について問いかける。
面倒な手間暇や遠回り、苦労、負荷がそこに存在することで、存在しない場合に比べて体験そのものが味わい深くなり、印象に残りやすいという不便益の価値は多くの人が共感できるものだろう。
実際に、不便であることが便利であることの価値を上回る逆転現象が社会のそこここに見られる。例えばマツダの2人乗りオープンスポーツカー「ロードスター」が年間1万台を超えるペースで爆売れしている。2人しか乗車できず用途が限られる不便な車であるにもかかわらずだ。しかもオートマより操作がはるかに煩雑なマニュアル車の販売が70%以上を占める。なかには、わざわざ教習所に通い免許証のオートマ限定を解除してから購入するオーナーもいるという。
フジパンのヒット商品となっている「マイクラフトベーカリー」シリーズには、消費者自身がトースターで焼き上げることでおいしく食べられるクロワッサンや塩パンがラインナップされている。買ってすぐに食べられる即食性という便利さの価値を、あえてひと手間かけねばならない不便の価値が上回り不便益を実現している。
観光・旅行業界にも事例がある。ピーチ・アビエーションがヒットさせた「旅くじ」がそれだ。その後、ホテルなども続々と追随した、いわゆる「旅ガチャ」系商品の火付け役となったアイデアだ。旅くじの価格設定はやや安めではあるものの、「行き先が選べない」という旅として決定的な不便さを埋め合わせられるほどの安さではない。にもかかわらずヒットしたのは、購入してみるまでは「どこへ行けるのかわからない」というワクワク感が、不便益として力を発揮した結果に他ならない。
ロードスター、マイクラフトベーカリー、旅くじの共通点は、いずれもコロナ下でのヒット商品であることだ。コロナ禍の経験が消費者の便益と不便益の価値判断に何らかの影響を及ぼしたと考えることもできる。
ブッキング・ドットコムが発表した23年の旅行トレンド予測にも、観光・旅行業界で不便益がトレンド化していきそうな兆しを読み取れる。同予測は世界32カ国・地域の2万4000人以上の旅行者を対象に行った「23年の旅行に関する調査」に基づき、23年を占う6つの旅行トレンドを予測したもの。
それによると、トレンドの1つとして「カルチャーショックを経験する異文化な旅」が挙げられている。一方で注目すべきは、自分の文化圏を抜け出し、異なる文化圏を訪れるという従来型の異文化体験だけでなく、ある意味で人間が作り上げた文化圏そのものからの脱出を志向する兆しがあることだ。というのも世界の旅行者の実に73%、日本の旅行者の60%もが、「自分の限界を試すような快適な環境を抜け出す旅に出かけたい」と回答しているからだ。あえて快適さを手放そうという思考からは不便益な旅の可能性を見いだすことができる。
【続きは週刊トラベルジャーナル23年1月23日号で】[1]
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