Travel Journal Online

タイムディファレンス

2022年10月17日 8:00 AM

 訪日観光客の査証取得免除と個人旅行の再開が10月11日から、という待ちに待った朗報を耳にしながら、2年8カ月ぶりの海外出張に出た。行き先はシンガポール。一足先に緩和された日本人の帰国時72時間前の陰性証明が不要となった時点で予定を入れたが飛行機は満席。

 羽田空港の第3ターミナルはまだまだ人影はまばら。出発案内の懐かしい行き先と便名に思わず目を細めるが、かつての状況には程遠い。チェックインカウンターは国ごとに異なる各種検査証明書の有無を確認する必要があるので、あまりスムーズともいえない。保安検査はPCをわざわざ出す必要はなくなったが、ボディスキャニングに時間がかかるようになった。しかも検査場の入り口への動線が短く、スペースが狭い。ピークになったら入り口前の行列は相当なものになるだろう。新たに必要になったもの、システムチェンジしたもの。こうしたことに慣れぬまま渡航者が増えていくことになる。

 飛行機に乗ると引き続きマスクの着用を、とのことで長旅にはうっとうしいが仕方なく従う。映画や電子書籍のラインナップが前よりかなり少ない。これを増やしたり更新したりするのにはコストがかかるので致し方ない。しかし、こうした細部にわたるサービスに気を配り、差別化をして他社と戦うという企業の根本的な姿勢は、果たして元に戻るのだろうか。

 長い行列も、手間のかかる感染対策も、致し方ないと受け入れざるを得なかった約3年の年月が、こまやかなことに気を配り、綿密に計算され尽くして繰り出される日本のおもてなしをも破壊したかもしれない。「もう、こんなもんでいいのでは」。そう思ってしまう人が増えている気がする。サービス業に就く人が激減した中で、遅れに遅れた鎖国の解除で急増するに違いない訪日客を受け入れるハード・ソフトの力がわれわれにどのくらい残っているのだろう。

 必ず来る「その日」に備え、情報発信をし、地域のハード・ソフトを磨き上げることに余念のなかった地域と、そうした対応を一切取らず、遠来の客をまるで忌避するかのように縮こまった地域の差はこれから出てくる。1シンガポールドルは100円を超えていた。これまでの感覚では「だいたい8掛け」だったので衝撃的だ。一方、シンガポーリアンからすれば日本が「8掛け」。3割は余計にお金を使う気でやって来る。ではわれわれは3割余計にお金を頂くだけの付加価値を付けているだろうか。まさか3割多くものを買い、3割余計に食べるだけとでも思っていないか。

 円安はわれわれのもつ価値の意味すら変えている。しかし、訪日客のいないままではその実感も得られず、シミュレーションして対策を打つことも難しい。頭の中で考えて、計算して、打つべき手を打たないと、単なる「安い国」になってしまう。その恐れと備えも十分でない。

 すでにシンガポールの観光は完全に正常化。マーライオンはプロジェクションマッピングでカラフルにライトアップされ、川沿いのバーも人であふれ返っていた。マスク率は半分程度だろうか。かつて徹底的なロックダウンをしていたはずのシンガポールだが、ホテルやビルの入り口で検温されることはなく、消毒液もなかった。さて10月以降の日本。爆増する訪日客にあちこちで検温と消毒をし、飲食店入店時だけのマスクを強いて、会話の弾まないアクリル板を立て、ホテルのビュッフェで手袋を付けさせ、「黙食」「黙浴」なる旅の気分を幻滅させる貼り紙をずっと見せ続けるのだろうか。

 シンガポールと日本の時差はわずか1時間。しかし、もはやもっともっと長い時差(タイムディファレンス)がある。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。