一本足打法の限界

2022.06.06 08:00

 人間の思考にはクセがある。研究者的思考、コンサル的思考、古い企業的思考、それにスタートアップ的思考……。ツーリズム界隈のさまざまな立場の人々といろいろなつながりを持つと、あらゆる思考に日々遭遇する。

 大学教員やシンクタンクの研究員と話をすると、「問いの立て方が秀逸」「真理の追究への情熱は目を見張るが、融通の利かない堅物だな」と思うことが多い。コンサル業界の人からは、「数字やフレームワークを上手に使うな」「経営層に受け入れられやすい仕事をするものの、生活者視点が完全にお留守になっていやしないか」と感じさせられる。古い企業の人には、「自社の論理を疑うことはないのだろうか」「産業全体や社会を見渡すことなく、相変わらず狭い箱庭のなかで一生懸命になっているのだな」と失望させられることがしばしば。そして、スタートアップの人々と話をすると「考え方が自由だなあ」と思いつつも、「KPIやKGIに縛られすぎでは」とか「自分たちの頭の中のベンチャーのイメージに固執した仕事ぶりを省みないのだろうか」と感じる。

 パンデミック以降不自由していたコミュニケーションのありようが改善しつつあるなか、ヨソの人と協働や共同研究をしていると毎日が人間観察であり業界観察になっていて面白い。

 一方、純粋に驚くことやイライラすることもある。「なぜこんなことを知っていないのか」「どうしてこのような進め方をするのか」。とはいえ、そうした考え方や進め方が発生するのは、得てして相手の所属するコミュニティーによるところが大きい。ただ本人からすれば、自分の日々の生活ではそれが当たり前の考え方や進め方になっている。そのため、思考のクセに気づかなくなってしまっている。だから、そういうものだと思ってこちらも対応している。

 そうしていると結局、越境的な学びや仕事をしている人のほうが、思考の自由さが存在するのだとの確信に帰結する。ずっと同じ会社、同じコミュニティーに漂っているとスキルが伸びないというのも、こうした話に関連するのだろう。ただ会社が変わっても立場や役割が変わらなければ思考の幅がそれほど変わることはないので、スキルが伸びることもない。このように思索にふけると、計画的偶発性という概念の重要性をあらためて感じざるを得ない。予期せぬ偶然の出来事を引き起こせる機会や準備は大事にしたい。

 その時に注意しなければならないのは、説得力の不十分な自己演出であり安直なジョブチェンジだ。拙劣な能書きを語る専門家もどきしかり、どこの誰だか知らないが名乗るが勝ちとばかりにクリエイティブディレクターだの○○プロデューサーだのと自称する怪しげな人物たちを観察していると、職種のバリューとはいまや曖昧なものに過ぎないと気づかされる。

 他方、役人や大企業の天下りは「実務家教員」としていまだに珍重されている。アカデミックトレーニングを数年にわたって受けた博士号取得者を軽んじる思想は、あまりにも教育をバカにし過ぎだろう。令和の時代に再現性の乏しいいにしえの教訓の伝道はいらない。

 先日、ある先達とご一緒した。氏は企業経営と労働団体運営、それに学術学会役員とさまざまな立場で重職を歴任した、業界でも希少な存在だ。主体間の貧弱なリスペクト、適切な意思決定者の不在など、語られた言葉はいずれも示唆に富むものだった。広い視野と奥行きの深い将来予見の根底に、柔軟かつ大胆に次代のパラダイムを構想する思考を感じた。二刀流は難しい。ただ、一本足打法ではもう打席にすら立てない時代に入っている。

神田達哉●サービス連合情報総研業務執行理事・事務局長。同志社大学卒業後、旅行会社で法人営業や企画・販売促進業務に従事。企業内労組専従役員を経て現職。日本国際観光学会理事。北海道大学大学院博士後期課程。近著に『ケースで読み解くデジタル変革時代のツーリズム』(共著、ミネルヴァ書房)。

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