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追い越し禁止の前に

2022年5月16日 8:00 AM

 昨年10月から埼玉県で「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならない」と定めた条例が施行されている。追い越す利用者のために片側を空けて乗るという習慣は10年ほど前までは常識で、鉄道会社や商業ビルでも片側空けを推奨していたはずだが、近年こぞって設置事業者もメーカーも説明を変えた。これも時代の変遷なのだろう。

 マナー発祥とされる英国では100年前から追い越しレーンの確保を推奨しており、いまでも「立つのは右、左は空けろ」と注意喚起している。一方で、子供やお年寄りに最大限の注意を払うことも同時に念押しされている。日本ではなぜこの考え方がダメになったのか。

 近年の訴訟社会において事故に対する設置事業者やメーカーの責任が重くなってきたことがあるだろう。また、危険な乗り方や追い越しをしようとする人が近年目立ってきたのかもしれない。しかし、そのような理由は前面には出てこない。先の条例にも「立ち止まらなければなぜ危険なのか」については書かれていない。

 よく使われる理由に、「メーカーはそもそも歩くことを想定して設計していない」「機械が壊れる」というものがあるが、木製ステップが使われていた1世紀前ですら追い越しを推奨していたものをいまさら「想定していない」というのはさすがに無理があるだろう。それとも、いまの日本製のエスカレーターは100年前の英国製より壊れやすい設計なのだろうか。

 もう1つの論拠に「追い越すとお年寄りや子供が危険」というものがある。ごもっともに聞こえるがこれもおかしい。そもそもエスカレーターは弱者に向けたバリアフリー機器ではないからだ。バリアフリーの対象は自らの意思で身体を動かすことができない人だが、エスカレーターは一人一人の身体的事情を考慮せず一定速度で動き続ける無慈悲な「大量輸送機械」だ。非常停止ボタンはあるが危険を感じた人がすぐに押せるものではない。少なくともエスカレーターの利用者は周辺の人たちと同じ速度で歩行できる人でなければならず、それができない人は非常に危険なため利用対象ではない。

 足の不自由な人が無理に乗ったのはよいが、スムーズに降りることができず降りたその場で立ち往生し、後から来る人が将棋倒し寸前になる光景を何度か見た。ベビーカーやシニアカートを強引に積み込み転倒させる利用者も存在する。幼児から目を離している親も日本では非常に多い。利用条件を無視して乗る子供や老人に気を付けるために規制を設けるというのは論法が逆ではないだろうか。

 そもそも危険が想定される人はバリアフリー機器であるエレベーターを使うのが基本だ。「お年寄りに遠回りさせ、時間のかかるエレベーターを使わせるのは差別だ」という声を聞いたこともあるが安全とはそういうものだ。条例や啓発により、本来使うべきでない人が躊躇なくエスカレーターを利用するようになったとすれば規制が本末転倒になる可能性もある。

 筆者は、例えば両手に荷物を持っていたりして自由に動きが取れない時は迷わずエレベーターを探す。逆に追い越し可能な時は気を付けながら追い越してきた。もちろん今後の社会のルールに従うつもりではあるが。

 追い越し禁止は時代の流れなので受け入れるべきではあると思う。しかし、それ以前に本来守るべきルールやマナーがあったはずだ。それを忘れて「そもそもそのような設計ではなかった」などという方向に理由を求めるのは、規制を求める側の思考停止に他ならない。

永山久徳●下電ホテルグループ代表。岡山県倉敷市出身。筑波大学大学院修了。SNSを介した業界情報の発信に注力する。日本旅館協会副会長、岡山県旅館ホテル生活衛生同業組合理事長を務める。元全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会青年部長。