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利他主義の合理性

2022年2月7日 8:00 AM

 無差別殺傷事件が後を絶たない。伝えられる容疑者の供述や凶行に至る経緯から見えてくるのは社会に対する不満だ。他者評価と自らの志との乖離を認識することで絶望し、孤立。やがて不満を募らせて社会構成員に対する敵意へ至るという。挫折し無力感に支配されたり自己のふがいなさに失望したりする一連のプロセスの起点の感性は普遍的価値観だ。では、その後のベクトルになぜ狂いが生じたのか。

 社会には憤まんがあふれる。フランスの思想家・経済学者で「欧州の知性」と称されるジャック・アタリは、パンデミック以前の著作において、怒りのやり場のない社会構造が世界を覆っていると論じた。原因は、市場と民主主義との関係の不安定化にあるとする。

 資本主義経済において市場の発展に伴って台頭し始めた中産階級。一般的に彼らは自由や平等を希求するが故に民主主義が普及し、その原則に従う形でそれぞれの国や地域で市場のルールや仕組みが整備されるようになる。こうして市場と民主主義は相互に影響しながら強化された。しかしながらグローバリゼーションが進展すると、ボーダーを超えて市場を縛る世界規模の法律や仕組みが存在しないため市場は暴走し始める。その結果、市場での成功者に富が集中し、格差が広がった。また、市場で自由が追求されると利己主義がまん延するものの、やはりコントロールする術はないと説く。

 そうした状況のもと、地球規模の「危機」が起こる。すると、それをきっかけとして憤まんは激怒へと変わる。激怒が支配する社会では過激な思想が跋扈(ばっこ)しテロリズムを誘発。民主主義は葬られ、全体主義が息を吹き返す危険性も出てくる。そして行き着く先が地球規模の戦争となり、人類文明は終焉を迎えるかもしれないと結ぶ。

 アタリは「危機」の例示にリーマンショックを挙げた。現代ならば新型コロナの流行と差し替えられるだろう。もとより他者を傷つける行為に同情の余地はなく、愚劣な所業に相違ない。ただ、アタリの主張をもとに冒頭の一節を顧慮すれば、不満が他者を傷つける行為に行き着く因果関係の推測は促される。他方、自粛警察やSNSによる密告者が登場するなど、健全さを欠いた異様な全体主義が見え隠れするようにもなった。

 そこで必要なのが利他主義とされる。「自分さえ良ければいい」のではなく、他者やこれからの世代のための行動が求められる。しかし、こうした思想に接近しようとするときには、決まって滅私奉公の精神をもって新たなフィールドでの活動を意識しがちだ。CSV経営がフィットせず、SDGsの取り組みにも理念を置き去りにした企業が散見されるのはその証左といえよう。利他的な行動が自らの利益となり幸福につながるとの思想を備えるのが賢明だ。

 旅行業界の行方は大いに危惧され、価値共創に不可欠な「人」の関与が消滅する蓋然性すら指摘される。そうしたなかでの助成金や給付金の組織的不正受給問題には大いに失望させられた。近視眼的思考による破壊的な利己主義が残した影響は大きい。何が個社にとって本当の利益となるのか、何が自社やステークホルダーの幸福につながるのかを正しく理解する知性があまりにも欠如していたと言わざるを得ない。

 他者を助けることは自己のためにもなるという「お互いさま」や「情けは人の為ならず」といった思想は、この国にも英知としてその文化が確かに存在していた。無力感にさいなまれて久しい昨今だが、あらためて胸に刻みたいものだ。孤独を感じて不満を募らせる以前に、孤高であり続けるという思考も備えたい。

神田達哉●サービス連合情報総研業務執行理事・事務局長。同志社大学卒業後、旅行会社で法人営業や企画・販売促進業務に従事。企業内労組専従役員を経て現職。日本国際観光学会理事。北海道大学大学院博士後期課程。近著に『ケースで読み解くデジタル変革時代のツーリズム』(共著、ミネルヴァ書房)。