東京五輪に感じた新たな空気感

2021.09.13 08:00

 数々の不安の中で開催された東京オリンピックもどうにか終わった。可否を問う周囲の騒がしい環境は別にして、選手の活躍には感動し心を洗われた。しかし、これまでの五輪とは明らかに異なる空気感に満ちていた。異例だらけの設営やコロナ禍の特殊要因を差し引いてもである。

 その違いのきっかけとなったのは新競技だろう。今回5つの競技が追加されたが、そのうちスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンがいわゆるエクストリームスポーツと分類されるものだった。自転車競技に分類された新種目BMXフリースタイルもそうだ。これらが五輪にもたらしたものは単に新鮮さだけではない。彼らのカルチャーは優劣を競うのではなく、互いに技を見せ合って称賛し合うというもの。失敗した選手を見て喜ぶことなどない。スケートボードで失敗した選手に対し、各国の選手が駆け寄り肩車をするシーンは新鮮だった。新競技の「競う」は旧来の五輪のそれとは異なる意味を持つものだった。

 それに伴いメダルの意味や価値にも大きな変化があった。国家間のメダル争いという要素が一気に希薄化したように見えたのは私だけだろうか。エクストリームスポーツでは国旗どころか相手の国籍すら意識していなかったように見えるし、出場国が居住国と異なっている選手が多く出場していても気にならなかった。

 それに呼応するようにメディアが国別のメダル数に一喜一憂する時間はぐっと短くなり、これまではメダルを取り逃すたびに噴出していた国による強化体制の不足や、選手の失敗を批判する世論もほとんど聞かれなかった。選手の言動や身なりや態度にまでケチをつけていた少し前の五輪とはまるで異なる雰囲気だ。

 もちろん、いまでもオリンピックへの参加と勝利が国威高揚につながると考える国や、いつか自国で開催して経済発展と国際的地位を向上させようと願っている国はあるだろう。しかし、少なくとも日本は「オリンピックを開催してメダルをたくさん獲得することが先進国の証し」という呪縛から解き放たれた感がある。五輪を利用して目立とうとした政治家や芸能人が軒並み批判される側に回ったのも決して偶然ではない。

 新しい五輪スタイルに「もっと真剣に戦え。敵と笑ってどうする」と眉をひそめる世代の人もいたかもしれない。かくいう私も「運動会で全員手をつないでゴールして全員一等賞!」という「ゆとり教育世代」に疑問を感じていた一人だ。しかし、新しい世代はちゃんと自身の高め方、競い方を身に付けていた。そう考えると、単純な勝ち負けにこだわるわれわれ世代の方が今後はむしろ異端になっていくのかもしれない。

 スポーツの世界は今後どう変わっていくのだろう。狩猟がゲーム化したもの、王が奴隷を戦わせた娯楽、代理戦争、決闘の定型化などがスポーツの起源といわれる。確かにサッカーは娯楽のボール遊びがルーツだろう。フェンシングは決闘から傷害の要素を除外したものだし、水泳や陸上は記録を競う自己との闘いだ。

 1964年東京五輪にあたり、国際スポーツ体育協議会は「プレイの性格を持ち、自己または他人との競争、あるいは自然の障害との対決を含む運動はすべてスポーツである」と定義づけた。前述のエクストリームスポーツはもちろんこの定義に含まれるし、近い将来eスポーツがオリンピックの競技になることもありうる話だ。

 勝ち負けの定義が変わり、国籍も国別競争も形骸化し、男女の区別すら疑問視され始めた。オリンピックは今後ますます変化するだろう。その変化を楽しめる大人でいたいものだ。

永山久徳●下電ホテルグループ代表。岡山県倉敷市出身。筑波大学大学院修了。SNSを介した業界情報の発信に注力する。日本旅館協会副会長、岡山県旅館ホテル生活衛生同業組合理事長を務める。元全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会青年部長。

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