いい問いを問う

2021.06.07 08:00

 当法人は総研を標榜し活動している。設立3年ではあるが、ありがたいことに招待にあずかって講演する場面、それに協働先や学会の分科会等で勉強会を催す機会が毎月のように巡ってくる。

 それらのシーンにおいて、筆者は定められた座席に終始収まり続けることはほとんどない。ノシノシと出席者のそばへ割って入りマイクを向けることで意見や質問を都度尋ねてまわる。それには2つの目的がある。一種の緊張感を生むことで場の活性を図ること。そして、筆者とは別の観点から問題に切り込んでもらったり異なる言いようを披露してもらったりすることでの出席者との「共創」を通じて質の向上を目指すことにある。

 しかし件のコロナ禍である。リアルの会合では演台に設置されたアクリル板の前から離れることは許されず、オンライン会議形式では「ミュートの解除待ち」という白けた間(ま)によって丁々発止のやり取りは阻害されてしまう。そうした状況での経験を踏まえ、リアルにせよオンラインにせよ本編終了後の質疑応答の時間をこれまで以上に重視するようになった。

 質疑応答。その空間は実に趣があって奥深い。発せられる問いの質や量によって参加者集団の特性を措定することができ、話者たる自身の客観的評価を間接的に把握することもできる。先日の講演でも出席者からさまざまな問いが授けられた。本論とは程遠いと断りを入れたはずの印象的なフレーズに強くこだわる人や、感想を述べた延長で実務の決意表明を演説する人、さらには難しかったと述べるも何が難解なのか説明できない人。本質に迫る問いには恵まれず、質問者のフォローにまわるケースとなった。

 そのパターンに陥る原因は明確に理解している。気の利いたアイデアや課題に対する答えめいたことを筆者が一切話さない。そのことが出席者の「望み」に反したことに尽きる。聴衆は学生ではなく実務家だ。学生で優秀なのは、問題の答えを知っている、覚えている人。だが、社会人に必要なのは、問いを見つけられる、思考力のある人と理解している。イベントやセミナーで具体的な事例を求めるのみで、咀嚼し抽象化する作業をスルーするのは愚かだと思う。ウチはこうしてみるという他社の事例を簡単にコピーすることに執心していては、どのようにしてみるかという考える能力が醸成されるはずがない。その調子では本質に迫る問いなど生まれない。

 話し手も反省が必要だ。どこかのウェブサイトに書いてあることや聞きかじったことを偉そうに話す人は少なくない。思い出してほしいが、それらの言葉の背後に思想や概念は見えるだろうか。ほとんどないから、心地よさはあっても聞き応えがまるでない。一時に比べると収まりつつあるが、ツーリズム界隈におけるセミナーや講演、インタビュー記事は相変わらず多い。しかし、実は中身を伴わない陳腐な言葉が、新鮮な響きだけでもてはやされている傾向は相変わらずだ。このことは業界従事者のレベルが「その程度」ということの証左だと捉えている。

 執筆や講演の機会に恵まれることによって自分が偉くなったように思い、アウトプットしていることが常に正しいと感じてしまうような勘違いは起こりがちだ。知に対する謙虚さが不足しているとその色彩はなお強い。他方アカデミックに触れていると、圧倒的に自身の知見が至らないことに気づかされ続けるものである。筆者はその沼にどっぷりとハマっているので心配には及ばない。結びにわが身かわいさによる補記を残しつつ、特集記事への架橋を兼ねて問う。「それでもツーリズムで働く理由は何ですか」

神田達哉●サービス連合情報総研業務執行理事・事務局長。同志社大学卒業後、旅行会社で法人営業や企画・販売促進業務に従事。企業内労組専従役員を経て現職。日本国際観光学会理事。北海道大学大学院博士後期課程。近著に『ケースで読み解くデジタル変革時代のツーリズム』(共著、ミネルヴァ書房)。

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