ズレをずらすと正対する

2021.03.08 20:00

 「旅は、ずらすと、面白い」――そんなキャッチコピーを掲げたJR東海の「ずらし旅」が好調との報道に接した。人混みを避けながら楽しむ新しい旅のスタイルを「ずらし旅」として昨年7月に打ち出した観光キャンペーン。ずらすポイントは時間、目的、移動方法。押し付けにならないように、コンセプトに共感してもらえるユーザーと新たな旅のスタイルを共に築き上げることを意識しているという。グループ会社において関連旅行商品を販売しており、サービス品質をコロナ禍においても安心感を伴って楽しめる旅と再定義して市場への価値提案を試みている。

 ずらす戦術というと、後発のブランドや業界2番手以下の弱者がポジションを確立するための手法としてしばしば用いられる。CEP(カテゴリー・エントリー・ポイント)と称されるそのブランドが持つ購買機会に基づく記憶連想への対抗策がずらすことの核心だ。外食牛丼チェーンではY社の「うまい、安い、早い」がCEPとして根強く浸透しており有意性は揺らいでいない。他方、「急須でいれたような濁りがお茶のうまみ」とするCEPを築いたC社は、猛者が跋扈するペットボトル緑茶市場において新たなポジショニングの獲得に成功している。

 「ずらし旅」はパンデミックという外部環境の大きな変化への対応を迫られた末の軟着陸であると一見思われる。だが、当該企業が首都圏の消費者へ25年以上訴求し続ける京都への誘客キャンペーンを企画のタネとした事実が背景に存在していた。3年前からオーバーツーリズムを意識した「分散」というテーマをコミュニケーションに内包していたのだ。早朝や夕暮れスポットの魅力を訴求したり、あえて寒い時期の凛とした空気で石庭に佇む体験を打ち出したり、また、知る人ぞ知る中心部から離れた寺院をメインビジュアルに取り上げるなどした。

 混雑の回避はオーバーツーリズムとウィズコロナに共通する課題だった。共通点を持つ課題解決に取り組んだ過去の知見やノウハウを応用して「ずらし旅」が生まれたのだ。このように、外的要因が劇的に変化している状況は、それまでに浸透していたCEPを転換する大きな契機であるといえる。そして、旅に出たい消費者を慮りこれまでに市場へ提案していたプロダクトを再編集し、ユーザーとのインタラクションを通じて価値共創を果たすに至った――。これはサービス・マーケティングの王道を突き進んだことによる好例といえよう。

 さて、ずらすときに参照した旅行市場のCEPとは何だったのか。上述を逆説的に捉えれば、実はもともとCEPがズレていてその姿はハッキリとしたものではなかったと考えが及んだ。市場からズレていた供給をあらためてずらすことで正対できた今般の事例は、市場における新たなポジショニングはわずかな区画といえども、その方向性は真正面に顧客を見据えていて揺るがない確実なもののように映る。大仰な表現かもしれないが、サービスを共につくり上げるアクターとして顧客を真に招き入れたサービス業の理想形を追求しているといえるだろう。

 市場を取り巻く環境は大きく変化しながらも、業界内部の変化のスピードは限定的であった。対応が追い付かなかったことで、旅行会社に対する消費者ニーズを先細りと評する人は少なくない。ツーリズムのCEPとは何か。顧客と向き合っているか。対話をしているか。プロダクトの提案先が霞んでいないか。いま一度、自らにズレがないかを顧みる補助線は常に手元に備えておきたい。価値提供から価値共創へとユーザーの抱く価値認識を変えられるタイミングは限られている。

神田達哉●サービス連合情報総研業務執行理事・事務局長。同志社大学卒業後、旅行会社で法人営業や企画・販売促進業務に従事。企業内労組専従役員を経て現職。日本国際観光学会理事。北海道大学大学院博士後期課程。近著に『ケースで読み解くデジタル変革時代のツーリズム』(共著、ミネルヴァ書房)。

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