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たとえ見る人がいなくても花は咲く

2020年4月20日 8:00 AM

 デマがもたらした歴史的な騒乱、豊田信金事件をご存じだろうか。1973(昭和48)年12月のある日、信用金庫に就職が内定した女子高生がそのことを友達に話した。友達は「銀行強盗があるから危ないよ」と冗談交じりに話した。

 その夜、内定した高校生が電話で叔母にその話をする。「ねえねえ、信用金庫って危ないの?」。聞いた叔母が友人に「豊田信金って危ないの?」と伝える。2日後、その話は「豊田信金は危ないらしい」として複数の人に伝播し、たまたま運転資金として120万円おろす電話をかけるのを聞いた人がさらにその話を拡散。女子高生の会話から5日後には豊田信金に59人の預金者が殺到、合計5000万円の預金をおろす。その頃には噂はすでに「潰れる」「明日はもうシャッターは上がるまい」などとエスカレーションして収拾がつかなくなり、合計5000人、14億円のいわゆる取り付け騒ぎとなった。

 急遽日銀が記者会見を行い、同信金の経営に問題はないことを発表し、警察はデマの発生源を特定し公表したものの、「3人の噂がここまで大きくなるはずはない。何かの陰謀では」などと騒がれ収束には時間がかかった。信金ではカウンターに現金を山積みにして健全ぶりをアピールしたと当時の新聞記事にある。

 人類で最も古いメディアは約10万年前に生まれた。それは「叫ぶ」こと。瞬時に相手に伝わるがコストはタダ、しかし保存も拡散もできなかった。約5000年前に象形文字が出来上がり、保存と拡散が可能になる。約1000年前に発明された活版印刷で、メディアが初めて有償化された。TV放送が始まったのはわずか約100年前。印刷物をはるかに上回る即効性あるメディアが登場したが、つい最近までそれを拡散する術はなかった。

 そしていま。デジタルの世界は叫ぶことで可能にした即効性、文字と印刷物が可能にした拡散性、それらとビデオレコーダーで実現した保存性のすべてを兼ね備え、テレビなどと比べ格段にローコストになった。しかも、長く続いた「発信者」と「受信者」が常に一方向であった時代が終わり、受け手も発信することができ、情報は行ったり来たりを高速に自由に繰り返す。

 人間の脆さを思い知る。コロナ禍での日々の報道や SNSにあふれるつぶやき。それらに惑わされ店からトイレットペーパーが消えた。日本だけでない。世界中で紙が、水が、パスタが店から消えていく。一体われわれは長い間何をしてきたのだろう。叫ぶだけの頃に比べはるかに多種多様な手段で情報をやりとりできるのに何も変わらなかった。目に見えない何かに怯えるばかり、先に起こるさらなる悲劇への想像力すらこれまでの経験から養うことができなかったのか。コミュニケーションを業としメディアに関わる者として、やるせなさでいっぱいだ。

 11年4月29日。私は東日本大震災から50日を経て開通した東北新幹線の一番列車に乗り、桜が満開の青森、弘前城公園に立っていた。「これから観光で東北を蘇らせる」と気勢をあげながら見た、花見客が全くいないあの光景を忘れることはない。あの時、日本中で花見も宴会もすべて自粛というムード払拭のきっかけになったのは岩手県の酒蔵の旦那がユーチューブで呼びかけた「花見をして、東北の酒をどんどん飲んで応援してくれ」のメッセージだった。世界中が不安に陥り、事実として多くの命が奪われている今の状況を変えるのはどこの誰のどんな行いなのだろう。

 そんな人間の右往左往に関係なく、たとえ見る人がいなくても、今年もあちこちで美しく花は咲く。われわれの滑稽なふるまいを嘲笑うかのように。

高橋敦司●ジェイアール東日本企画 常務取締役営業本部長 チーフ・デジタル・オフィサー。1989年、東日本旅客鉄道(JR東日本)入社。本社営業部旅行業課長、千葉支社営業部長等を歴任後、2009年びゅうトラベルサービス社長。13年JR東日本営業部次長、15年同担当部長を経て、17年6月から現職。